軍閥としての成長
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1307年にオルジェイトゥ・カーンが亡くなるとカイシャンがクルク・カーン(武宗)として帝位に即き、アスト・キプチャク・カンクリ衛の諸将も側近として取り立てられ、1309年(至大2年)には初めて右アス衛(右衛阿速親軍都指揮使司)・左アス衛(同左衛)が設置された。しかし、クルク・カーンは即位後僅か4年にして崩御してしまい、次に即位したクルク・カーンの弟ブヤント・カーン(仁宗アユルバルワダ)は先帝の側近を粛正・冷遇した上、クルク・カーンの遺児(コシラ、トク・テムル)を地方に飛ばして自らの息子シデバラ(後の英宗ゲゲーン・カーン)を皇太子としてしまった。仁宗・英宗政権を通じてアスト兵はかつての主君クルク・カーンの一族を冷遇する朝廷に不満を募らせており(トガチの乱)、1323年に起こった英宗弑逆事件(南坡の変)の実行犯はテクシ率いるアス衛の兵であった。 シデバラの死後、一旦は遠縁のイェスン・テムル(泰定帝)がカーンに即位したが、その死後遂にキプチャク・アスト兵はクルク・カーンの遺児を擁立すべく決起した(天暦の内乱)。この内乱で主導的立場にあったのはキプチャク衛指揮官のエル・テムルであったが、その次に重要な立場にあったのがアス衛指揮官であったバヤンであった。バヤンはエル・テムルの死後にウカート・カーン(順帝トゴン・テムル)を擁立して実権を握り、配下のアス衛指揮官たちも要職についた。 バヤンの権勢が絶頂にあった1336年(後至元2年)、ローマ教皇ベネディクトゥス12世の下に「アラン人(=アス人)君侯たち」から使者が派遣された。使者はウカート・カーンからの書簡とアラン人君侯たちからの書簡を携えており、書簡には以下のように記されていた。 ベネディクトゥス12世宛トゴン・テムル書簡:万能の神の力において、諸皇帝の皇帝の勅……また、これら我らの僕アラン人、そなたのキリスト教徒の息子たちを、何卒よしなにお願いする。同じくまた彼らが、陽の沈むところから我らに、馬その他の驚くべきものを持ち帰らんことを。カンバレクにて、鼠の年6月、月暦第3日(1336/7/11)。ベネディクトゥス12世宛アラン人君侯たちの書簡:万能の神の力において, ならびに我らが主皇帝の誉れにおいて。我ら、フティム・イウエンス(Futim Juens)、カティケン・トゥンギイ(Caticen Tungii)、ゲムボガ・エウェンジ(Gemboga Evenzi)、イォアンネス・イゥッコイ(Ioannes Juckoy)、聖なる父、我らが主なる教皇に、地に伏し、足に吻して、ご挨拶し、その祝福と恩寵を乞い、かつまた、その聖なる祈籍において我らを記憶し、決して忘れ給わぬことを。……それゆえ貌下、この度また今後、そなたからの確かな回答と貌下に相応しい使者を派遣し給わんことを。 彼らが嘘を吐いたとなれば、この地のキリスト教徒にとって非常な恥でありますゆえ。カンバレクにて、鼠の年6月、月暦第3日(1336/7/11)。 この「アラン人君侯たち」の要請に従ってローマ教皇から派遣されたのがジョヴァンニ・デ・マリニョーリで、マリニョーリは1342年7月18日にウカート・カーンに謁見して黒馬を献上し、帰国後に編纂した『ボヘミア年代記』にこの時の経験を断片的に記述している。マリニョーリは『ボヘミア年代記』で「東方の帝国全体を統べる3万以上の至高のアラン人君侯たちは、名実共にキリスト教徒で、自ら教皇の奴隷と称し、フランクのために死す用意がある」とまで述べるが、マリニョーリの到来は漢文史料には「拂郎(フランク)国からの朝貢」としか扱われておらず、ローマ教皇に対する辞の低い書簡と使者の派遣の要請は「アラン人(=アス人)君侯たち」が自らの立場の強化と権勢の誇示に利用するためのものであったと考えられている。 なお、ローマ教皇に届けられた書簡で「アラン人君侯たち」の筆頭に置かれる「フティム・イウエンス(Futim Juens)」は、元アス人領主でモンケに仕えたハンクスの曾孫「福定」に比定されている。
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