軍閥として自立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:18 UTC 版)
1911年10月に武昌起義が勃発。東三省でも革命勢力が蜂起したが、再び東三省を統治する任にあたっていた趙爾巽は軍事力を行使して鎮圧に成功した。張も兵を率いて多くの革命派を殺害した。翌年には清朝が滅び中華民国が成立したが、東三省においては趙爾巽がそのまま奉天都督となり、旧勢力は温存された。張も革命勢力を鎮圧した功績により中将・陸軍師団長に昇進した。まもなく趙爾巽は満州族で清の遺臣という前歴から都督を辞任し、しばらくして袁の配下である段芝貴が東三省を総管する地位に就くが、他省出身であることから現地とのつながりは薄かった。一方、張は既に発言力を得つつあった在地勢力の利益代表として影響力を強め、東三省での権益拡大を目論む日本とも協力関係を取り付けた。この時期の張は表向きは袁に従っていたが、張の力を恐れた袁は彼を子爵に任じている。 「軍閥時代」も参照 1916年に袁が死去。これを好機と見た張は策略を用いて段を失脚させ、奉天省の支配権を獲得した。さらに勢力を広げ、1919年には黒竜江省・吉林省も含めた東三省全域を勢力圏に置き、「満洲の覇者」として君臨した。彼の率いる勢力は本拠地とした都市の名を採って奉天派と呼ばれ、張は「満洲王」と呼ばれるほどの威勢を誇った。1919年の2月から9月、グリゴリー・セミョーノフの配下ロマン・ウンゲルン・シュテルンベルクが張のもとを訪れ、外モンゴルのボグド・ハーン政権樹立に関する会合の準備を行った。
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