軍閥の庇護
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/21 14:30 UTC 版)
臨夏の馬安良・馬国良兄弟の軍閥と覇権を争っていた馬麒は影響力のある教派による宗教的な支柱を必要としていた。そこで彼はイフワーン派を支持して他の教派や門宦を抑え青海を支配することをはかった。1922年には青海に「寧海回教促進会」を設立し、イフワーン派のアホンの育成を開始した。1929年に馬麒が死去すると馬麒の弟である馬麟とその息子である馬歩芳が軍閥の支配権を継承し、馬麒と同様にイフワーン派を擁護した。こうした強力な保護を受けたイフワーン派は青海の国教としての扱いを受けることとなった。 これまで圧迫を受けてきたイフワーン派は一転して他教派を圧迫し、改宗を強制できる立場に変わった。寧海回教促進会はアホンを育成するほか各地のモスクにアホンを送り改宗を強制していた。そのために1923年には肉親同士の殺し合いが起きたという。1936年に馬歩芳が青海省の主席に就任した際にはイフワーン派への強制改宗が行われた。彼は1939年には青海回教教育促進会会長に就任し、その職権を利用して青海省のアホンをことごとくイフワーン派のアホンに変えた。1940年には馬歩芳は、イフワーン派への改宗を拒絶し馬歩芳勢力の軍人を殺害した河州にある村を攻撃し、村人側に150人以上の犠牲者が出た。1949年までに甘粛省の臨夏では16あったモスクの内12のモスクがイフワーン派に強制改宗させられた。 イフワーン派は青海や甘粛に限らず寧夏でもまた布教活動を行った。当初はカディーム派の抵抗に遭って死者が出たり、門宦であるジャフリーヤによってアホンが誘拐されたりしたが、寧夏出身のアホンである虎嵩山によって1930年代までに寧夏の大部分に広まった。しかし1980年代の信徒数は十数万人で、カディーム派とジャフリーヤに及ばないという。
※この「軍閥の庇護」の解説は、「イフワーン派」の解説の一部です。
「軍閥の庇護」を含む「イフワーン派」の記事については、「イフワーン派」の概要を参照ください。
- 軍閥の庇護のページへのリンク