軍閥割拠時代
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1920年、北京に各省区自治連合会と自治運動同志会という2つの連合組織が誕生した。また天津には五省一区自治運動が、上海には滬自治連盟連合会が設立された。 1921年に湖南省は最初の「湖南省憲法草案」を公開し、浙江省、雲南省、四川省、広東省の各省も省憲法を制定、湖北省、広西省、福建省、陝西省、山西省、貴州省、江西省、江蘇省なども憲法上の自治権を積極的に議論した。章炳麟はこの連邦主義の運動を「連省自治」と呼称した。 連省自治運動の推進者は熊希齢であり、湖南督軍の譚延闓が最初に呼応した。 1920年7月22日、譚延闓は「政府の国民返還」と「湖南人の自治」、「国民感情に応じる」省長公選制と湖南省を実現を唱えた。これに対して浙江省の盧永祥、広東派の陳炯明なども呼応した。 10月には章炳麟が長沙に招待され、譚延闓が実行する連省自治の奨励を行った。 11月2日、譚延闓は、連省自治を提案した。これはそれまで提唱されていた「一省自治」よりも進歩したものだった。 11月9日には、章炳麟は北京の「益世報(中国語版)」において「もし連省自治の政府ならば」という投稿を発表して支持を表明した。 1922年1月、「湖南省憲法」が公布され、四川派、雲南派、貴州派、広東派、旧広西派・新広西派、安徽派や奉天派などの地方軍閥がこの流れに呼応した。 1922年9月、 胡適は「自治省の下で統一された連邦国家の設立」を提唱し、張東蓀、丁世澤、潘力山(中国語版)、等がこの連邦制を支持した。 孫文は「連省自治では民主主義を促進できない」と考え、県ごとの地方自治実施する分権制を主張した。そして連邦制の採用は、国家の崩壊につながると主張し、連省自治に反対した。 1922年夏、孫文は韶関市に北伐大本営を設置し、連合軍を結成して江西省を攻撃、中国統一に乗り出した。広東派の陳炯明は「北伐停止」と「省憲法制定の優先」を主張し、両者は激しく対立した。 やがて広州に戻ると、1922年6月16日、陳炯明は観音山の総統府を砲撃、六・一六事変(中国語版)が勃発した。孫文は蔣介石、陳策(中国語版)などに護衛され砲艦永豊で広州を脱出、上海に逃れた。 1926年、孫文の後継者となった蔣介石が北伐を継続して湖南省に侵攻、易幟が発生したことで中華民国は国民政府に統一され、連省自治の主張は下火となった。
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