軍閥割拠時代とは? わかりやすく解説

軍閥割拠時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 14:42 UTC 版)

中華連邦主義」の記事における「軍閥割拠時代」の解説

1920年北京各省自治連合会自治運動同志会という2つ連合組織誕生した。また天津には五省一区自治運動が、上海には滬自治連盟連合会設立された。 1921年湖南省最初の「湖南省憲法草案」を公開し浙江省雲南省四川省広東省各省も省憲法制定湖北省広西省福建省陝西省山西省貴州省江西省江蘇省なども憲法上の自治権積極的に議論した章炳麟はこの連邦主義運動を「連省自治」と呼称した。 連省自治運動の推進者熊希齢であり、湖南督軍譚延闓最初に呼応した1920年7月22日譚延闓は「政府国民返還」と「湖南人の自治」、「国民感情応じる」省長公選制と湖南省実現唱えた。これに対して浙江省盧永祥広東派の陳炯明なども呼応した10月には章炳麟長沙招待され譚延闓実行する連省自治奨励行った11月2日譚延闓は、連省自治提案した。これはそれまで提唱されていた「一省自治」よりも進歩したのだった11月9日には、章炳麟北京の「益世報(中国語版)」において「もし連省自治政府ならば」という投稿発表して支持表明した1922年1月、「湖南省憲法」が公布され四川派、雲南派貴州派、広東派、旧広西派新広西派安徽派奉天派などの地方軍閥がこの流れ呼応した1922年9月胡適は「自治省の下で統一され連邦国家設立」を提唱し張東蓀、丁世澤、潘力山中国語版)、等がこの連邦制支持した孫文は「連省自治では民主主義促進できない」と考え、県ごとの地方自治実施する分権制を主張した。そして連邦制採用は、国家崩壊につながると主張し連省自治反対した。 1922年夏、孫文韶関市北伐大本営設置し連合軍結成して江西省攻撃中国統一乗り出した広東派の陳炯明は「北伐停止」と「省憲法制定優先」を主張し両者激しく対立した。 やがて広州に戻ると、1922年6月16日陳炯明観音山総統府砲撃六・一六事変(中国語版)が勃発した孫文蔣介石、陳策(中国語版)などに護衛され砲艦永豊広州脱出上海逃れた1926年孫文後継者となった蔣介石北伐継続して湖南省侵攻易幟発生したことで中華民国国民政府統一され連省自治主張下火となった

※この「軍閥割拠時代」の解説は、「中華連邦主義」の解説の一部です。
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