軍閥時代のガンデンポタン政府と中華民国
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「チベットの歴史」の記事における「軍閥時代のガンデンポタン政府と中華民国」の解説
軍閥時代の間、中国はチベットに干渉する力を持つことができなかった。1918年、ラサはチャムドと西カムの統治を取り戻した。揚子江に沿って休戦が行われ、このときチベット政府は衛蔵のほとんどと西カムを支配しており、大体現在のチベット自治区の境界と一致する。揚子江に分割されている東カムは劉文輝将軍の軍閥に占領されており、忠誠心を変えた現地のチベット人王子が統治を行った。アムド(青海はさらに複雑であり、西寧地区は1928年から回族の将軍馬歩芳とそのムスリム一家の将軍の馬家軍に占領されており、彼らは一貫してアムドの残りへの影響力維持に努力した。青海の残りの地域は地元政府が統治していた。南カムのほかに雲南の一部には1915年から1927年にかけて雲南軍閥が伸びており、知事で将軍である竜雲は中国内戦の終わり頃、蔣介石の命令で杜聿明が彼を排除するまで雲南に居続けた。 ガンデンポタンチベット政府は、1917年-1918年、1931年-1933年にかけて、中華民国と戦火を交え、ディチュ河(金沙江)に至るまでのカム地方の西部に対する支配権を徐々に回復していった。やがてチベットと中国は、それぞれカム地方の全域が自国の管轄下にあるという建前の地方行政単位をもうけた。チベットは、カム地方西部の中心都市チャムドに「ドカム総督府」を置き、閣僚級のアムド・カム総督(ドメーチーキャプ)を配して統治にあたらせた。 一方、中華民国は、発足以来、カム地方に対して省制を施行することができず、川辺特別区をおいていたが、国民政府時代の1939年、日中戦争の勃発にともない、国民政府は特別地区解消を急ぎ、実効支配の及ぼばないディチュ河以西をも名目上の範囲として、西康省を設置した。実効支配領域はディチュ河東岸に限られたダライラマ13世の治世、北京はその領域に代表者をおくことは無かった。 1912年以来、チベット-中国間の交渉は英国が仲裁する場合のみに行われてきたが、1933年11月にダライ・ラマ13世が死去すると、以後、チベットと中国との間で直接交渉が再開された。中華民国はパンチェン・ラマ9世をチベットに送り返し、チベットの政治に中華民国の意思を反映させようとした。しかしパンチェン・ラマ9世はラサ到着前に急死した。しかし、中華民国の国民党政府は蒙蔵委員会のメンバーの一部を13世の葬儀に弔問使節として送り、そのまま駐蔵弁事官としてチベットに駐留させることに成功している。実質的な権限はほとんど無かったが、中華人民共和国が成立した1949年にラサ政府が全員退去させるまでこの部署が存在した。この退去事件が中華人民共和国のチベット侵攻のきっかけの一つとなっている。 1933年のダライラマ13世死後、噶廈はチベットが自らの政治情勢を管理できたならば、チベットは名目上中国の一部のままだったという1914年の立場を再び主張した。 1912年以降チベットは中国の制御から事実上独立していたが、中国共産党はチベット統治が断絶しなかったとして、当時の国民議会と国会の両議会にチベット人議員が存在したことを根拠に主張している。 1934年より1935年にかけ、長征によりカム地方を通過中の労農紅軍第四軍の支援によりチベット人人民共和国が設立されたが、紅軍の撤退とともに、ほどなく解体した。
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