軍閥・軍国主義思想
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「大日本帝国陸軍」の記事における「軍閥・軍国主義思想」の解説
1878年(明治11年)8月、精鋭である筈の近衛砲兵が反乱を起こすという竹橋事件が起こり、軍と政府に衝撃を与えた。また、自由民権運動の影響を帝国陸軍が受けることを防ぐために、軍人勅諭が出された。ここでは「忠節・礼儀・武勇・信義・質素」の徳目を掲げるとともに、その中で政治不干渉を求めていた。しかしながら、陸軍将校のうち官衙、とりわけ中央勤務の者は官僚機構の側面も有しており、古くは薩摩藩・長州藩等出身者とその他の藩又は幕府出身者との対立があった。近代的将校教育制度確立後は、兵科間・陸大出身者と非出身者間・派閥間(皇道派と統制派)同士の対立など、無数の内部的な抗争を生みやすい状況であった。また、昭和期には関東軍など外地に所在する現地部隊が、中央(参謀本部)の統制を充分に受けずに行動するなどの問題点も抱えていた。1945年11月28日、最後の陸軍大臣下村定大将は敗戦後の第89回帝国議会において、斎藤隆夫代議士からの質問に対して、帝国陸軍を代表して以下のごとく問題点を総括している。 「軍国主義の発生に付きましては、陸軍と致しましては、陸軍内の者が軍人としての正しき物の考へ方を過つたこと、特に指導の地位にあります者がやり方が悪かつたこと、是が根本であると信じます、……或る者は軍の力を背景とし、域る者は勢ひに乗じまして、所謂独善的な横暴な処置を執つた者があると信じます、殊に許すべからざることは、軍の不当なる政治干与であります……私は陸軍の最後に当りまして、議会を通じて此の点に付き全国民諸君に衷心から御詫びを申上げます……此の陸軍の過去に於ける罪悪の為に、只今斎藤君の御質問にもありましたやうに、純忠なる軍人の功績を抹殺し去らないこと、殊に幾多戦歿の英霊に対して深き御同情を賜はらんことを、此の際切に御願ひ致します」(「……」は省略部分) これが、帝国陸軍解体直前の陸軍大臣による総括であった。このように、陸軍指導者が軍人としての正しい振舞い方を誤り、また、軍人勅諭でも禁止されていた政治関与を行ったことを国民に対して明確に謝罪するとともに、全ての軍人が誤ったわけではなく、純忠なる軍人もいたことを否定しないように請願して演説を終えた。 なお、直後に同席していた米内光政海軍大臣にも答弁が求められたが、米内は斎藤の質問には海軍大臣に答弁を求めることが議事録にないことを理由に拒否し場内の憤激を買った。
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