軍閥時代の蔵中関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 03:51 UTC 版)
「チベット (1912-1950)」の記事における「軍閥時代の蔵中関係」の解説
軍閥時代の間、中国はチベットに干渉する力を持つことができなかった。1918年、ラサはチャムドと西カムの統治を取り戻した。揚子江に沿って休戦が行われ、このときチベット政府は衛蔵のほとんどと西カムを支配しており、大体現在のチベット自治区の境界と一致する。揚子江に分割されている東カムは劉文輝将軍の軍閥に占領されており、忠誠心を変えた現地のチベット人王子が統治を行った。アムド(青海)はさらに複雑であり、西寧地区は1928年から回族の将軍馬歩芳とそのムスリム一家の将軍の馬家軍に占領されており、彼らは一貫してアムドの残りへの影響力維持に努力した。青海の残りの地域は地元政府が統治していた。南カムのほかに雲南の一部には1915年から1927年にかけて雲南軍閥が伸びており、知事で将軍である竜雲は中国内戦の終わり頃、蔣介石の命令で杜聿明が彼を排除するまで雲南に居続けた。 1920年代から1930年代にかけて、中国は内戦と日中戦争で割れていたが、チベットへの主権を手放しすことはせず、時々それを断言する試みを行った。中国政府はそれを支援した。しかし、ダライラマ13世の治世、北京はその領域に代表者をおくことは無かった。
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