軍閥・国府軍時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 09:49 UTC 版)
1898年10月24日に湖南省湘潭県石潭鎮にて誕生する。貧農の出身であり、幼くして母親が病死した後に生活は困窮し、祖母と共に物乞いにより糊口を凌ぐ生活であった。9歳で家郷を離れ、13歳からは炭鉱勤務、15歳の時に洞庭湖のダム建設工事に従事している。旧制大学に入学した(『彭徳懐自述―中国革命とともに』、サイマル出版会、1986年発行に記述)。 1916年3月に17歳で湯薌銘の湘軍(湖南軍)第二師第三旅第六団第一営第一連(師長・陳復初、旅長・陳嘉佑、団長・魯滌平、営長・劉鉶、連長・胡子茂)の兵卒となる。この頃から早くも頭角を現し、優秀な人物と見なされ班長を任せられるようになった。この時、同連の兵卒であった段徳昌(中国語版)、黄公略(中国語版)、王紹南(中国語版)、李燦、張栄生、席洪全、祝昌松、魏本栄らと秘密組織「救貧会」を組織。同年8月、湯は失脚、以降北京政府での政争に伴い、湖南督軍も譚延闓、安徽派の傅良佐や張敬尭と頻繁に入れ替わり、更に直隷派の軍人たちも湖南省内各地に割拠し始め、各部隊の指揮官がいずれの派閥につくかで湖南軍は分裂を始める。1920年初夏、張敬尭との戦闘に参加、この功により排長(小隊長)に任ぜられる。同年11月末、兵士11万人が参加した鬧餉闘争に参加。 1921年に第二師は蔣作賓らの湖北自治軍を支援する「援鄂自治戦争」に参加するも、直隷派の蕭耀南率いる第25師に敗退。同年夏、第六団主力は南県に、第一連は華容県注滋口鎮に駐留、彭は連長(中隊長)代理を任ぜられる。そこで敗残兵掃討の傍ら戦乱で疲弊した貧民を支援していたが、現地の地主であった区盛欽が王紹南、魏本栄ら救貧会の同志によって殺害されるという事件が起こり、彭も関与を疑われ逮捕される。長沙への移送中、彭は魯滌平の後任で第六団団長となっていた袁植の計らいで脱走した。翌年春、友人で広東の独立営営長(大隊長)であった魯広厚の下に身を寄せ、魯広厚の部隊の連長となる。その後しばらく軍をやめ農家になっていたが、8月、湖南軍官講武堂に入学。この頃、名を徳懐と改めた。講武堂卒業後の1923年、第六団第一営に復帰し翌年には営長代理、1926年5月、営長となる。それから間もなくして、湖南省にも北伐の軍勢が押し寄せた。湘軍は国民党の軍門に下り、国民革命軍第8軍に改編(軍長・唐生智)、彭徳懐は第8軍隷下の独立第一師第一団第一営営長となった。この頃、共産党員で第8軍第2師政治秘書長の段徳昌(中国語版)と接触した事で、次第に左傾化していく。1927年、蔣介石が上海クーデタを起こして第一次国共合作が崩壊すると、彭徳懐は国民党軍から追放された。翌1928年、中国共産党へ入党した。
※この「軍閥・国府軍時代」の解説は、「彭徳懐」の解説の一部です。
「軍閥・国府軍時代」を含む「彭徳懐」の記事については、「彭徳懐」の概要を参照ください。
- 軍閥・国府軍時代のページへのリンク