王紹
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王 紹(おう しょう、743年 - 815年)は、唐代の官僚・政治家。もとの名は純。字は徳素。本貫は京兆府万年県[1][2]。
経歴
工部員外郎の王端の子として生まれた。王純は若くして顔真卿に器量を重んじられ、その推薦により武康県尉に任じられた。蕭復が常州刺史となると、王純はその下で従事となった。包佶が租庸塩鉄使となると、王純はその下で判官をつとめた。ときに淮西節度使の李希烈が反乱を起こしており、江淮の租税を輸送するのは困難であったが、王純は潁州から汴州に入る道を切り開いた。王純は徳宗のもとに訪れようとしたが、徳宗が梁州に避難していたため、王純は金州・商州の道を通って洋州に出て、行在に赴いた。王純が江淮の物資を届けて朝廷の危難を助けたので、徳宗に労をねぎらわれ、深く頼りにされた[3][2]。
貞元年間、王純は倉部員外郎となった。戸部郎中・兵部郎中を歴任した[4][5]。貞元13年(797年)2月、判戸部となった[6]。7月、戸部侍郎に任じられた[7]。貞元16年(800年)2月、判度支となった[8]。貞元18年(802年)、戸部尚書に進んだ[9]。貞元21年(805年)、順宗が即位し、王叔文が政権を握ると、王純は兵部尚書に任じられた[4][10]。永貞元年(同年)、王純は憲宗の名と同じだったため、名を紹と改めた[1][2]。王紹は検校吏部尚書となり、東都留守をつとめた。元和元年(806年)、検校尚書右僕射・徐州刺史・武寧軍節度使に転じた。さらに濠州・泗州の軍を管轄した。元和6年(811年)、長安に召還されて兵部尚書に任じられ、判戸部事を兼ねた[4][10]。元和9年12月(815年1月)、死去した[11]。享年は72。尚書左僕射の位を追贈された。諡は敬といった[4][10]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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