王紹とは? わかりやすく解説

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王紹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/15 07:21 UTC 版)

王 紹(おう しょう、743年 - 815年)は、唐代官僚政治家。もとの名は純。は徳素。本貫京兆府万年県[1][2]

経歴

工部員外郎の王端の子として生まれた。王純は若くして顔真卿に器量を重んじられ、その推薦により武康県尉に任じられた。蕭復が常州刺史となると、王純はその下で従事となった。包佶が租庸塩鉄使となると、王純はその下で判官をつとめた。ときに淮西節度使の李希烈が反乱を起こしており、江淮の租税を輸送するのは困難であったが、王純は潁州から汴州に入る道を切り開いた。王純は徳宗のもとに訪れようとしたが、徳宗が梁州に避難していたため、王純は金州商州の道を通って洋州に出て、行在に赴いた。王純が江淮の物資を届けて朝廷の危難を助けたので、徳宗に労をねぎらわれ、深く頼りにされた[3][2]

貞元年間、王純は倉部員外郎となった。戸部郎中兵部郎中を歴任した[4][5]。貞元13年(797年)2月、判戸部となった[6]。7月、戸部侍郎に任じられた[7]。貞元16年(800年)2月、判度支となった[8]。貞元18年(802年)、戸部尚書に進んだ[9]。貞元21年(805年)、順宗が即位し、王叔文が政権を握ると、王純は兵部尚書に任じられた[4][10]永貞元年(同年)、王純は憲宗の名と同じだったため、名を紹と改めた[1][2]。王紹は検校吏部尚書となり、東都留守をつとめた。元和元年(806年)、検校尚書右僕射・徐州刺史・武寧軍節度使に転じた。さらに濠州泗州の軍を管轄した。元和6年(811年)、長安に召還されて兵部尚書に任じられ、判戸部事を兼ねた[4][10]。元和9年12月(815年1月)、死去した[11]。享年は72。尚書左僕射の位を追贈された。は敬といった[4][10]

脚注

  1. ^ a b 旧唐書 1975, p. 3520.
  2. ^ a b c 新唐書 1975, p. 4804.
  3. ^ 旧唐書 1975, pp. 3520–3521.
  4. ^ a b c d 旧唐書 1975, p. 3521.
  5. ^ 新唐書 1975, pp. 4804–4805.
  6. ^ 旧唐書 1975, p. 385.
  7. ^ 旧唐書 1975, p. 386.
  8. ^ 旧唐書 1975, p. 393.
  9. ^ 旧唐書 1975, p. 397.
  10. ^ a b c 新唐書 1975, p. 4805.
  11. ^ 旧唐書 1975, p. 451.

伝記資料

参考文献




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