大悟以降とは? わかりやすく解説

大悟以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 09:59 UTC 版)

臨済義玄」の記事における「大悟以降」の解説

その後臨済河北の有力軍閥である成徳節度使王紹懿(中国語版英語版)(禅録では王常侍)の帰依を受け、真定府臨済院住み興化存奨初めとする多く弟子育て北地一大教線を張り、その門流は後に臨済宗呼ばれるようになった。 その宗風馬祖道一に始まる洪州宗の禅風を究極まで推し進め中国禅の頂点極めた。その家風は「喝」(怒鳴ること)を多用する峻烈な禅風であり、徳山の「棒」とならび称され、その激しさから「臨済将軍」とも喩えられた。 867年1月10日臨済弟子三聖慧然を枕辺呼び私が死んでも正法眼蔵(仏の伝えた尊い教え)を滅ぼしてならないぞ」と述べ、慧然は「どうして老師正法眼蔵滅ぼしたりなどできましょう」と応えた。すると臨済は「では今後、人がお前に尋ねたならどう応えるのか」と問うと、慧然は一喝した。臨済は「わしの正法眼蔵が、この馬鹿坊主のところで滅びてしまうとは、いったい誰が知るであろうか」といい、そのまま端然として遷化されたとされている。

※この「大悟以降」の解説は、「臨済義玄」の解説の一部です。
「大悟以降」を含む「臨済義玄」の記事については、「臨済義玄」の概要を参照ください。

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