大悪天皇の異名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 18:46 UTC 版)
政軍共に優れた能力を発揮してヤマト王権の力を拡大させた反面、気性の激しい暴君的な所業も多く見られた。皇位を継ぐために肉親すら容赦なく殺害し、反抗的な豪族を徹底的に誅伐するなど、自らの権勢のためには苛烈な行いも躊躇せず、独善的で誤って人を処刑することも多かったため、大悪天皇(はなはだあしきすめらみこと)とも誹謗された。『日本書紀』雄略紀2年10月条には以下のような記述がある。 天皇、心を似て師とし給ふ。誤りて人を殺したまふこと衆し。天下、誹謗りて言う。大悪天皇なり、と。 また、『書紀』5年2月条にはこうした雄略の振る舞いを皇后の草香幡梭姫皇女が窘めたという逸話もある。 今陛下、嗜猪の故を以て、舎人を斬りたまう。陛下、譬えば豺狼に異なること無し 猪を射殺せない気弱な舎人を斬り殺そうとした大泊瀬天皇(雄略天皇)に、皇后が「今猪を食したいからといって舎人を斬られますのは豺狼と何も違いません」と諌めている。豺狼を残忍な例えとするのは『後漢書』などの漢籍にも書かれており、話自体が後世の創作とも考えられるものの、雄略の性格を表した一節といえる。 即位13年9月には当時決して刃先を誤らない工匠の木工にして黒縄職人と噂の猪名部真根に本当かと問うと「決して誤らない」と答えられたので、采女を呼び集めてその衣服を脱ぎ褌にさせ人前で相撲を取らせた。その様子を見た猪名部真根は思わず刃先を誤ってしまったので、大泊瀬天皇(雄略天皇)は猪名部を物部に付けて死罪にしようとした。そこに黒縄の匠の技が失われることを惜しんだ仲間が詠んだ和歌を詠み、それを聞いた天皇は悔い改めて「むやみに人を失ってはならない」と言い、使いを刑場に遣わし恩赦を与え解放した。 一方で、有徳天皇(おむおむしくましますすめらみこと)という異名もある。『書紀』4年2月条では葛城山で一言主神と邂逅した雄略天皇が神と共に猟を楽しみ、帰りは来米水(高取川)まで送られた。その豪胆さに感嘆した百姓達は、口々に「有徳天皇」と讃えたという。 草香幡梭姫皇女を始めとして、雄略天皇の皇后・妃には実家が誅された後に決められたものが多い。王権の強化のため、有力皇族や豪族を征伐したのち、その残党を納得させてヤマト王権に統合するために妃を取るということであろう。兄である安康天皇のやり方に倣っただけではなく、雄略天皇の治世では、皇族だけでなく有力豪族にも拡大適用してヤマト王権の強化を強行し、征伐された皇族・豪族からの恨みを買って[要出典]「雄略=暴君」の記述が残されていると思われる。なお前述のように猪名部真根に恩赦を与えた記録もある。
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