関陝の変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/26 04:24 UTC 版)
1316年の3月に大都を発したコシラ一行は非常にゆっくりとしたペースで進み、8ヶ月経った同年11月にようやく陝西行省管轄下の延安に到着した。延安ではシハーブッディーンやカブルトゥといった元カイシャンの部下たちが集い、その中の一人ジャファルは「天下は我が武皇(=クルク・カーン)のものである」と述べ、陝西行省の助けを得て朝廷にコシラの復権を訴えるべしと主張した。前述したようにカイシャン派の大物であったアスカンはこの時陝西行省の長(丞相)の地位にあり、アスカンの助けを得られることを見越してジャファルらは京兆府(陝西行省の治所)に向かった。 ジャファルらを迎えたアスカンは早速コシラを奉じて決起することを決め、平章のタガチャル、行台御史大夫のトリ・ベク、中丞のトゴンらと協力し、陝西行省の兵を招集した。アスカンらは交通の要衝である潼関・河中府から「腹裏(コルン・ウルス=河北一帯)」に攻め入ろうと計画したが、河中府に至ったところでタガチャル、トゴンが突如として裏切りアスカン・ジャファルを殺害した。この翌月にはコシラと行動をともにしていたトゥクルクがすぐにアスカンの後釜として陝西行省左丞相に任じられており、コシラ派が決起した「関陝の変」はブヤント・カーン政権によって仕組まれたものであったと考えられている。すなわち、ブヤント・カーン政権にとって最も目障りなコシラ、アスカンという危険人物を一箇所にまとめ、わざと決起させた上で、以前から懐柔していたタガチャル、トゴン、トゥクルクらを利用して両者を一挙に排除することこそがブヤント・カーン政権の最終的な目標であったと推測されている。 「関陝の変」が起こった翌月、ブヤント・カーンは「赦罪の詔」を出してアスカン・ジャファル・チェルケスら乱を起こした首謀者たちを斬首し叛乱を鎮圧したことを宣言し、自らの統治を「隆平の治」と自賛した。しかし、ブヤント・カーン政権にとって最大の誤算であったのはアスカン以上の重要人物、コシラを取り逃がしてしまったことで、コシラの西方への逃亡が新たに「トガチの乱」を引き起こすことになった。
※この「関陝の変」の解説は、「トガチの乱」の解説の一部です。
「関陝の変」を含む「トガチの乱」の記事については、「トガチの乱」の概要を参照ください。
- 関陝の変のページへのリンク