関電二・二六事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 16:01 UTC 版)
1970年に芦原は会長に退き、さらに相談役名誉会長に退いたが、その後も女婿・腹心の内藤千百里(のち副社長)を用いて社内に強い影響力を持った。ところが、1986年に『朝日ジャーナル』誌で連載されていた「企業探検」で関電が取り上げられ、その一種恐怖支配とも取れるワンマンぶりが公となった(なお、この記事を執筆したのは当時龍谷大学教授だった奥村宏であった)。これで社内外に批判が噴出、翌1987年2月の関電取締会で芦原と内藤の解任動議が出され、小林庄一郎会長のイニチアシブの下、両者の解任が可決された。
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