関隴貴族集団支配の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 17:52 UTC 版)
「武川鎮軍閥」の記事における「関隴貴族集団支配の終焉」の解説
この関隴貴族集団の支配体制が覆される契機となったのは、武則天による科挙出身者の登用である。 太宗死後、関隴系の領袖といえる長孫無忌が高宗を擁して専権を振るい、反対者を排除していた。武則天は高宗を自らの美貌で籠絡することにより、長孫無忌を追い落とした。 武則天自身も関隴系の出身ではあるのだが、主流には遠かった。そこで武則天は権力を掌握するに当たって、関隴系が政権を握っていることに不満を持つ層を味方につけた。その中には性質の悪い者もかなりいたが、科挙出身者の能力がある者が武則天の周りに集まった。 科挙は既に隋代から行われていたが、関隴系が支配する宮廷では、科挙出身者たちは高位の役職につけないことが多かった。武則天はそれらの者を積極的に登用し、自らの政権を固めていった。 武則天の武周朝は武則天の老いにより頓挫し、その後の玄宗の即位により、関隴体制が再び復活することになる。玄宗も治世初期には武則天の登用した科挙出身者を使っていたものの、中期以降は名族の李林甫(李淵の従父弟の曾孫に当たる)などを使うようになる。 その後の安史の乱・牛李の党争などにより貴族の優位性が崩れ、科挙官僚の進出が目立つことになる。その後の黄巣の乱(中国語版)により、唐は大幅に国力を消耗し、関隴集団も姿を消すことになる。
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