関門鉄道トンネルの開通
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「門司の歴史」の記事における「関門鉄道トンネルの開通」の解説
1931年(昭和6年)、門司港の修築工事が完成し、大連航路、天津航路も開け、門司港は国際港として世界に知られるようになった。1か月に200隻近い外航客船が入港した。満州事変以降の大陸進出に伴い、門司港は貿易とともに軍需物資や兵員輸送の拠点となった。 明治時代から九州と本州を結ぶ海底トンネルの構想はあったが、1930年頃になると、貨物の量が激増し、従来の連絡船による貨物輸送では追いつかなくなったことから、海底トンネルの検討が本格化した。1935年(昭和10年)に鉄道大臣内田信也が視察に訪れ、弟子待・小森江ルートの採用が決まり、1936年(昭和11年)に関門鉄道トンネルが着工、1942年(昭和17年)7月に貨物列車の運行が開始した。 1929年頃の門司駅(現門司港駅)。 門司港駅から関門連絡船乗り場に向かう地下道には、太平洋戦争中、特別高等警察が通行人を監視する監視孔が作られた。 これに伴い、1942年4月1日、それまでの門司駅は門司港駅と改称され、それまでの大里駅は400メートルほど南側に移転して門司駅となった。門司駅は、7月、東京、大阪、京都に次ぐ特別一等駅に指定され、戦後まで九州の玄関口としてにぎわった。一方、門司港駅を経由せずに下関駅と門司駅がつながることとなり、門司港地区にとっては衰退の予兆となる出来事でもあった。 1937年(昭和12年)8月には、壇ノ浦・和布刈間で関門国道トンネルも着工され、1944年(昭和19年)に貫通したが、戦時下の資金難、物資調達難により、事業は中断された。
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