関電中興の祖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 16:01 UTC 版)
1951年の電気事業再編成により、関西電力常務取締役に就任した。1959年に太田垣士郎の後任社長に就任し、黒部川開発を始めとした電源開発と共に逸早く原子力発電を導入した。折から公害や環境破壊が問題となり、地域住民の電源立地が困難になると、中央の財政界を巻き込んで政府の電源立地促進政策強化を支援、原子力開発において国民的コンセンサス確立に努めた。 さらに、発電から配電に至る広範な革新技術の開発導入を進めるとともに、設備運用・経営管理面におけるコンピュータリゼーションの推進による経営全般の近代化・効率化に努めた。 関電経営の傍ら、財政制度審議委員・科学技術審議議員などの公職を務め、関西経済同友会の代表理事や関西経済連合会会長・日本電気協会会長・公共広告機構(現:ACジャパン)会長、更には阪急電鉄・日本生命・大阪ガスなどの社外取締役や毎日新聞社顧問を務めるなど殊に関西の財界に影響力を持ち続けた。こうしたことから「関電の中興の祖」と呼ばれている。
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