高官時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:39 UTC 版)
1328年(天暦元年)、帝位を巡って天暦の内乱が勃発すると、ナイマンタイの兄ドロタイは上都派に立ってエル・テムルら大都派と戦った。最終的に大都派が勝利を納めるとドロタイは処刑されてしまったが、ナイマンタイはカイドゥとの戦争で轡をともにした経緯からエル・テムルら大都派の首魁とは知己の間柄であり、乱後にナイマンタイの地位はむしろ向上した。ナイマンタイはこの時次期国王の座をも欲していたとみられるが、処刑された先代の直弟が後継者となるのは体裁が悪く、結局は遠縁のドルジが跡を継いだ。 当初、天暦の内乱を制して即位したのはトク・テムルであったが、その直後にチャガタイ・ウルスに亡命していたコシラがチャガタイ家の軍事力を背景に中央に乗り込み、クトクトゥ・カアンとして即位した。1329年(天暦2年)のクトクトゥ・カアンの短い在世期間、ナイマンタイはカアンの命によってチャガタイ・ウルス当主イルジギデイに派遣される使者に抜擢された。これはクトクトゥ・カアンの即位を助けたチャガタイ・ウルスへの返礼の使者であり、かつてオゴデイが兄チャガタイのため作らせた「皇兄之宝」と刻まれた宝印(タムガ)をイルジギデイに届けるよう命じられている。 中央アジアから戻ったナイマンタイは、今度は陝西行省の平章に任じられた。このころ、陝西地方では大飢饉が生じ、各地から食料が集められていた。ところが、かつて河南地方が飢饉であった時に陝西の民が食料の供出を拒んだ経緯から、河南出身の官吏が陝西への食料の供給を禁じるという問題が起こった。ナイマンタイは急ぎこの官吏を罰して食料を陝西に入れさせ、かつ貧民には鈔を供給して飢饉から救った。 1330年(至順元年)には上都留守に任ぜられ、さらに開府儀同三司・知嶺北行枢密院事に昇格とされて宣寧郡王に封ぜられた。上都留守は正二品、開府儀同三司は正一品であり、これは異例の昇進であった。また、「宣寧郡王」位も本来は最低ランクの「銀印亀紐」であるところを金印を与えられており、このような異例の厚遇は一時的とはいえ国王位を諦めた代償として与えられたものではないかと考えられている。
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