「天暦の内乱」において
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/14 06:54 UTC 版)
「チェチェクトゥ」の記事における「「天暦の内乱」において」の解説
1328年、イェスン・テムル・カーンが死去すると、その遺児アリギバを擁立する上都派と、トク・テムルを擁立する大都派の間で天暦の内乱が勃発した。しかしモンゴリアに領地を持つチェチェクトゥはこれを機にそれまで敵対していたチャガタイ・ウルスに亡命中のコシラに接近し、コシラが大元ウルス領に帰還する手引きを行った。同年10月、チェチェクトゥはアルタイ山脈を越えてきたコシラを迎えており、カラコルムにおけるコシラの即位宣言においてもチェチェクトゥが大きな役割を果たしたと見られる。 折しも上都派と大都派の戦闘は大都派の勝利となり、トク・テムルが既にカーン位に即いており、このままではコシラとトク・テムルの間で争いが起こるのは必至であった。そこでコシラ勢力代表としてトク・テムル勢力と交渉を行ったのがチェチェクトゥで、天暦2年(1329年)初頭にまず使者を派遣し、その3ヶ月後には自ら使者としてトク・テムル勢力の下を訪れた。 チェチェクトゥらの交渉により一旦はトク・テムルがカーン位をコシラに譲るという合意がなされ、チェチェクトゥらはトク・テムルにより下賜を受けた。ところがオングチャドでのクリルタイでコシラは急死を遂げ(エル・テムルらによる謀殺と見られる)、急遽トク・テムルが改めてカーン位に即くこととなった。
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