「天地の拍子」と「勝敗の論理」について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/13 05:32 UTC 版)
「独考」の記事における「「天地の拍子」と「勝敗の論理」について」の解説
まず、真葛の唱える「天地の拍子」に対して馬琴は「自ら考え得たりと思うは、おさなし。およそ書をよむほどのものは、誰もよくしれることなり」として完全に否認する。馬琴は、「天地の拍子」を雅楽や神楽の基準として理解し、「天地の拍子」に国や時代による遅速があるわけではなく、「人気」(世俗)のありようで変化があるように感じられるだけであるとする。儒学者が「から国」の拍子をうつすため、日本の拍子に合わないという『独考』の見解を否定し、学者聖賢が「天地の拍子」に合わないのは当時の世俗のせいであるとの論を展開する。 馬琴はまた、真葛の「心の抜け上がり」の体験を「さとり」とは認めない。「さとりは学びてのちに得つべし。まだ学ばず聞かずしてさとるのは聖人のみ」として、彼女が「学ばずして得られ」たというのであれば、それは「さとり」などではなく「慢心の病のわざ」であるとして、真葛の展開した論はすべて「ひが事」(間違い)であるとする。 さらに、『独考』における「勝敗の論理」については、人間が勝負を争うのは「天性にあらず、みな欲より起こるなり」として人間の本性を善とし、欲望を抑えて善があらわれるよう努めることによって人間の道徳的な生き方が生まれるとし、「勝敗の論理」を「乱を招く」ものであるとして性善説の立場から危険視する。真葛にとって「仁」とは「世の人のためによきわざを残す」ということであったが、それを馬琴は「仁に似て仁にあら」ざる「婦人の仁」であるとし、彼女の道徳論はすべて善悪正邪の区別を混乱させるものであると断罪する。
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