バトゥの征西
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 13:38 UTC 版)
1235年に開催されたクリルタイにおいてヨーロッパ遠征が決定されると、スブタイは軍事能力と長年にわたる従軍経験を評価され、遠征の総司令官を務めるバトゥの副官に任じられた。この時のヨーロッパ遠征では、スブタイがバトゥに代わる実質的な総司令官を務めていたとも考えられている。 1236年春にスブタイはブルガール地方を攻撃し、ブルガールの族長たちを屈服させる。1237年から1238年にかけ、遠征軍はリャザン(旧リャザン)、ウラジーミル、スーズダリ、トヴェリなどのルーシの都市を陥落させた。スブタイは略奪によって食糧を集めながら南下し、ドン河畔で兵士に休息を取らせた。モンゴルへの服従を拒むカフカスの民族が制圧された後に遠征軍は行軍を再開し、1240年にキエフを破壊する。スブタイの軍はモルダヴィアを抜け、1241年にハンガリーに侵入したバトゥの本隊と合流した。モヒの戦いにおいて、スブタイはハンガリー王ベーラ4世が率いるハンガリー軍に勝利を収めた。同年にオゴデイが没するとヨーロッパ遠征は中止され、スブタイは東方に帰還した。 スブタイは帰国後にオゴデイ没後に開催されたクリルタイに参加した後、トゥラ河畔に与えられた遊牧地に居住し、1,100の封戸を有した。死後、河南王に追封された。
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