バトゥの西方遠征とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > バトゥの西方遠征の意味・解説 

バトゥの西方遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 01:19 UTC 版)

バトゥ」の記事における「バトゥの西方遠征」の解説

1236年2月モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイの命を受けてヨーロッパ遠征軍の総司令官となり、四一人であるスブタイチンギス・カンの四男のトルイ長男であるモンケ、そしてオゴデイ長男であるグユクらを副司令として出征した。 『元朝秘史によれば、各王家長子クラス皇子たち、また領民持っていない皇子たち、さらに (戸)の、千(戸)の、百(戸)の、十(戸)のノヤンたち、多くの人は誰であっても 己が子の兄たる者(長子)を出征させよ。王女たち、(その)婿どのたちは同じようにして 己が子の兄たる者(長子)を出征させよ。 とあって帝国全土王侯・部衆の長子たち、すなわち次世代モンゴル帝国中核を担う嗣子たちが出征するという甚だ大規模なのだったバトゥ遠征軍参軍する皇子たちを統括しグユクそのもと皇帝オゴデイ本営軍(qol)から選抜され部隊統括するよう勅命によって定められていたことが続けて述べられており、加えて集史によればチンギス・カン功臣筆頭ボオルチュ世嗣ボロルタイがこのバトゥ本営中軍qol)の宿将としてこれを率いていた。 この遠征では前述のとおり各王家当主クラス皇子たちが出征した。すなわち、 ジョチ家からは総司令バトゥ筆頭に、その異母兄オルダ異母弟ベルケシバンタングトチャガタイ家からはチャガタイ長男モエトゥケン次男ブリ、その叔父にあたるチャガタイの六男のバイダルオゴデイ家からは長男グユク、その末弟カダアン・オグルトルイ家からは長男モンケと七男のボチュク。 そしてチンギス・カンとその次席皇后クラン・フジンとの子であるコルゲン。 などである。この時バトゥ率いた兵力は、4個千人隊(約1万人)だったと推定される遠征軍征服目標ジョチ家所領西方の諸族、アスブルガールキプチャク諸勢力ルーシ、ポーランド・ハンガリー方面であり、「ケラル」と称されるおそらくさらに西方ドイツ、フランス方面までも含まれていたと思われる

※この「バトゥの西方遠征」の解説は、「バトゥ」の解説の一部です。
「バトゥの西方遠征」を含む「バトゥ」の記事については、「バトゥ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「バトゥの西方遠征」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「バトゥの西方遠征」の関連用語

バトゥの西方遠征のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



バトゥの西方遠征のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのバトゥ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS