バトゥの西方遠征
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1236年春2月、モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイの命を受けてヨーロッパ遠征軍の総司令官となり、四狗の一人であるスブタイやチンギス・カンの四男のトルイの長男であるモンケ、そしてオゴデイの長男であるグユクらを副司令として出征した。 『元朝秘史』によれば、各王家の長子クラスの皇子たち、また領民を持っていない皇子たち、さらに 万(戸)の、千(戸)の、百(戸)の、十(戸)のノヤンたち、多くの人は誰であっても 己が子の兄たる者(長子)を出征させよ。王女たち、(その)婿どのたちは同じようにして 己が子の兄たる者(長子)を出征させよ。 とあって、帝国全土の王侯・部衆の長子たち、すなわち次世代のモンゴル帝国の中核を担う嗣子たちが出征するという甚だ大規模なものだった。バトゥは遠征軍に参軍する皇子たちを統括し、グユクはそのもとで皇帝オゴデイの本営軍(qol)から選抜された部隊を統括するよう勅命によって定められていたことが続けて述べられており、加えて『集史』によれば、チンギス・カンの功臣筆頭のボオルチュの世嗣ボロルタイがこのバトゥの本営・中軍(qol)の宿将としてこれを率いていた。 この遠征では前述のとおり各王家の当主クラスの皇子たちが出征した。すなわち、 ジョチ家からは総司令バトゥを筆頭に、その異母兄のオルダと異母弟のベルケ、シバン、タングト。 チャガタイ家からはチャガタイの長男のモエトゥケンの次男のブリ、その叔父にあたるチャガタイの六男のバイダル。 オゴデイ家からは長男のグユク、その末弟のカダアン・オグル。 トルイ家からは長男のモンケと七男のボチュク。 そしてチンギス・カンとその次席皇后クラン・フジンとの子であるコルゲン。 などである。この時バトゥが率いた兵力は、4個千人隊(約1万人)だったと推定される。遠征軍の征服目標はジョチ家の所領西方の諸族、アス、ブルガール、キプチャクの諸勢力、ルーシ、ポーランド・ハンガリー方面であり、「ケラル」と称されるおそらくさらに西方のドイツ、フランス方面までも含まれていたと思われる。
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