バトゥ・ウルスの成立
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「バトゥ・ウルス」の記事における「バトゥ・ウルスの成立」の解説
1206年、モンゴル帝国を創設したチンギス・カンは配下の領民と領地を一族・功臣に分配し、彼らの領有する土地人民(=ウルス)が連合する体制を作り上げた。チンギス・カンの長男のジョチはゲニゲス部のクナン・ノヤン、フーシン部のケテ(フーシダイ)、シジウト部のモンケウル、アルラト部のバイクら4人の千人隊長が率いる千人隊と、イルティシュ河流域を遊牧地として与えられ、モンゴル高原北西部にジョチ・ウルスを形成した。ジョチは中央アジア遠征が始まると本隊から離れてシル河下流域方面とキプチャク草原東部を制圧し、この一帯を自らの領地に加えた。 ジョチが遠征先で父に先立って急逝した時、彼には14名の息子がいたが、その中で有力な後継者候補は長男のオルダと次男のバトゥであった。『集史』「ジョチ・ハン紀」には「オルダは、バトゥの君主たることに同意していた。彼の父の地位への即位集会(クリルタイ)を催した」と記され、詳細は不明なもののオルダから譲られる形でバトゥはジョチの後継者となったようである。一方、16世紀に編纂された『チンギズ・ナーマ』では、オルダとバトゥが互いに相手こそ父の後継者に相応しいと譲り合い、最終的にチンギス・カンの裁決を仰いでバトゥが選ばれたとする。また、この時にチンギス・カンが「金の入口の白い天幕をサイン・ハン(=バトゥ)のために、銀の入口の青い天幕をエジェン(=オルダ)のために、鉄の入口の灰色の天幕をシバンのために建てた」ことが「白帳」「青帳」という呼称の由来になったとする。このような記述は史実とはみなしがたいが、後世バトゥ家とオルダ家が断絶しシバン(シャイバーニー)家が浮上した歴史を象徴的に語る逸話であるとみなされる。 『集史』「ジョチ・ハン紀」は上記の記述に続けて「ジョチ・ハンの軍隊から半分は彼(オルダ)、半分はバトゥが持った。彼は自分の軍隊と四人の弟のウドゥル、トカ・テムル、シンクル、シンクムと共に左翼軍となった。彼らは今日まで、左翼の諸王と呼ばれている」と記し、ジョチの軍隊の半数を継承したオルダが4人の弟とともに「[ジョチ・ウルス]左翼=オルダ・ウルス」を形成したとする。左翼の成立と構成については研究者の間で異論はないが、問題なのは右翼で、史料上で「ジョチ・ウルスの右翼」について明確に言及する記述が存在しない。そのため、ジョチ・ウルス右翼の成立と構成については研究者の間でも諸説あるが、概ね上述した5人の王子(オルダ、ウドゥル、トカ・テムル、シンクル、シンクム)を除くジョチ家の王子がバトゥ家を中心として一つのウルスを形成したのが「バトゥ・ウルス=白帳」であると考えられている。 また、バトゥは1230年代から1240年代にかけてヨーロッパ侵攻(英語版)の総司令官を務め、この遠征で得られたチェルケシア・アラン=アス・キプチャク・オロス(ルーシ)・ブルガール(大ブルガリア)といったキプチャク草原から東欧に到る広大な領土はジョチ・ウルスのものとなった。バトゥ・ウルスの遊牧地については、最初期はウラル川流域〜シル川流域一帯にあったとする説もあるが、ルーシ・東欧遠征で西方に広大な新領土を得て以後はサライを中心とするヴォルガ川流域がバトゥ・ウルスの中心地とされたと見られる。なお、上述したバトゥが継承した「ジョチの軍隊の半数」とは、ジョチがチンギス・カンより最初に与えられた4つの千人隊の内の半分(モンケウルとバイクの千人隊)であると見られる。そして、バトゥ・ウルスの内部でも左右両翼体制が取られ、千人隊長のバイクが右翼を、モンケウルが左翼をそれぞれ指揮していたと考えられる。
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