バトゥ・ウルス=青帳ハン国の分裂
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「バトゥ・ウルス」の記事における「バトゥ・ウルス=青帳ハン国の分裂」の解説
トクタミシュの敗亡後、バトゥ・ウルスでは傀儡ハンを擁立するエディゲ、トクタミシュとその息子たち、そしてシバン・ウルスが主導権争いを繰り広げる分裂状態に逆戻りした。まず勢力を拡大したのがマングト部出身のエディゲで、エディゲは自分の甥にも当たるテムル・クトルクら傀儡ハンを擁立し、バトゥ・ウルスの大部分を支配下に置いた。これに対し、トクタミシュとその息子たちはリトアニア大公国に支援を求めて対抗し、20年にわたってバトゥ・ウルス西部では両者の抗争が繰り広げられた。しかし、1419年にはエディゲとトクタミシュの息子のカーディル・ベルディが相打ちとなる形で没落し、代わって台頭してきたのがトクタミシュの近縁にあたるウルグ・ムハンマドであった。 ウルグ・ムハンマドはサライ一帯を治めることでジョチ・ウルスの正当な支配者としてみなされたが、その勢力は極めて限定的なものであって、クリミア方面やカスピ海北岸地域に実効的な支配を及ぼすことはできなかった。ウルグ・ムハンマドのように、サライを抑えることでジョチ・ウルスの正当な後継者と認められながら、著しく支配領域を縮小させた勢力のことを当時の中料では「大オルダ」と呼称している。ただし、「大オルダ」の成立・滅亡時期、また「大オルダ」 という概念そのものについては研究者によって意見がしばしば異なり、定まっていない。 1430年代に入るとウルグ・ムハンマドはクチュク・ムハンマドに敗れてヴォルガ河上流のカザンに逃れて自立し、ウルグ・ムハンマドを始祖とするこの勢力は後世「カザン・ハン国」と呼ばれた。また、ウルグ・ムハンマドの息子の一人のカースィムはモスクワ大公国の支援を受けて「カシモフ・ハン国」と呼ばれる勢力を形成したが、これはモスクワが草原地帯に進出するための傀儡国家と化した。一方、クチュク・ムハンマドとその子孫が継承した「大オルダ」の中で、アストラハンを中心とする一派は後世「アストラハン・ハン国」と呼ばれたが、「大オルダ」と「アストラハン・ハン国」の関係(両者がいつから別の勢力と見なされるようになったか)は研究者によって諸説ある。 一方、かつてママイが根拠地としていたクリミア地方にはトクタミシュによる右翼平定時に「シリン、バーリン、アルグン、キプチャク」4部族が移住しており、「トクタミシュの特別な従者」と呼ばれたこれら4部族はクリミア地方において独自の勢力を形成した。青帳(左翼)のバラクとウルグ・ムハンマドの抗争が繰り広げられていた頃、争乱を避けてリトアニアに亡命していたウルグ・ムハンマドの従兄弟のギヤースッディーンにハージー・ギレイという男子が生まれ、ハージー・ギレイは1441年に「4部族」の一つシリン部の招聯を受けてハンに即位した。ハージー・ギレイを始祖とするこの勢力は後世クリミア・ハン国と呼ばれ、後にオスマン帝国の保護下に入ることでバトゥ・ウルス系の勢力の中では最も長く存続することになった。 これら、バトゥ・ウルスから分裂した諸ハン国は二度と再統合されることなく、最終的にすべてモスクワ=ロシアによって併合されていった。バトゥ・ウルス=青帳ハン国の滅亡時期については諸説あるが、ヨーロッパでの伝統的な史観では「大オルダ」のシャイフ・アフマドがクリミア・ハン国のメングリ・ギレイに滅ぼされた1502年とされる。旧左翼=オルダ・ウルスの領域に居住する集団が「ウズベク」、「カザフ」といった名称で呼ばれたのに対し、右翼=バトゥ・ウルスの領域に居住する集団は基本的に「タタール人」と総称された。「タタール」は「ウズベク」「カザフ」と異なってモスクワ=ロシアへの併合後独立国を形成することはできなかったが、現在のロシア連邦には「タタールスタン共和国」や「クリミア自治共和国」が属しており、これらがバトゥ・ウルスの間接的な後継者であるといえる。
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