シジウト部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 19:59 UTC 版)
『元朝秘史』によるとメネン・トドンの末子ナチン・バートルの息子シジウダイからシジウト部が派生したとするが、『集史』と『輟耕録』はカイドゥ・カンの息子チャウジン・オルテゲイから興ったとされる。ポール・ペリオは「シジウト」という名称は中国語の刺史がモンゴル語に転訛したものであろう、と指摘している。 モンゴル帝国においてシジウト部出身で名を残したのは事実上モンケウルの一族のみであった。『集史』「シジウト部族志」には「この部族出身の有力者は多数いたし、[今も]いる。しかし、この(イランの)国には高位・高名の者は、確実とはいえないとしても、誰も知られていない」とあり、フレグ・ウルスにはシジウト部出身者がほとんどいなかった。
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