幕末期・尾張藩邸の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 15:19 UTC 版)
「吉田 (京都市)」の記事における「幕末期・尾張藩邸の建設」の解説
同じ幕末期には京の政情不安定に備えて上洛する各藩の藩士・志士が増加し、鴨川を挟んで御所に近い吉田の地は各藩の新たな拠点の候補地として注目を集めることとなった。このなかで会津藩が現在の京大吉田キャンパス薬学部構内・東南アジア研究所付近に藩邸をおき、さらに元治元年(1864年)には尾張藩が現在の京大吉田キャンパス本部構内に相当する敷地に下屋敷をおき、下級藩士を住まわせた。この藩邸の建設は吉田村の主要な交通路を変えることとなった。すなわち、藩邸が南側の東西通り(現在の東一条通(吉田参道))に正面を向けて造営されたことにともない、吉田神社は、南側の大元宮へとつながる従来の参道に代えて、当時名前もなかったこの東西通りを新たな参道として整備したため、東一条通がこの地区の主要路の一つとなった。さらに、先述したように次第に街道としての重要性が薄れつつあった志賀越道は、尾張藩邸敷地によって途中をふさがれ通りとしては中断する形になり、現在に至っている。なお現在も東大路通り東側に残る石垣はこの尾張藩屋敷を取り囲む石垣として建設されたものである。
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