幕末・維新期の混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:25 UTC 版)
幕末には河井継之助が郡奉行に就任したのを機に、それ以後、藩政改革を行って窮乏する藩財政の立て直しをはかるとともに、兵制を改革してフランス軍に範を取った近代的軍隊を設立した。慶応4年/明治元年(1868年)、戊辰戦争が起こり藩論が佐幕か恭順かで二分すると、家老に就任した河井は藩主の信任のもと恭順派を抑える一方、佐幕派にも自重を求め、藩論の決定権を掌中に収めた。さらに、新政府軍からの献金・出兵要請を黙止し、会津藩などからの協力要請に対しても明言を避け、中立状態を維持した。新政府軍が小千谷に迫ると、河井は陣地へ赴き、平和的解決のための調停役を願い出た。しかし、密偵や草莽の情報により長岡藩を会津側とみなしていた新政府軍は、これを詭策と判断し一蹴した(小千谷会談)。会談が決裂したため、ここにきて藩論を戦守と定め、奥羽列藩同盟に加わり新政府軍との戦闘を開始した(北越戦争)。激戦の末、陥落した長岡城を一時は奪還したものの、火力・兵員共に圧倒的に上回る新政府軍に押されて再び陥落し、領民や藩士たちは会津へと落ち延びた。 長岡藩は多くの戦死者(309人説が有力)を出した。これは会津藩23万石(内高40万石強)、仙台藩62万石(内高100万石)、二本松藩10万石(内高14万石)に次ぐ戦死者で、藩の規模・戦闘員の員数を考えると、長岡藩7万4000石(内高14万石)の犠牲は大きなものであった(藩の実際の実力は、表高ではわからず内高が重要である。東北地方などでは太閤検地の数字をそのまま使用していた場合が多く、内高との差が大きい傾向があった。例えば徳川御家門の会津藩の内高は御三家の水戸藩を大きく上回る。詳細は内高を参照)。 北越戦争の勝敗を決した要因の一つとして、新発田藩・溝口家の裏切りがあげられる。そのため、長岡士族の家では、新発田には娘を嫁にやらないという因習が長く残るなど、長岡の新発田に対する怨念は薩摩・長州以上のものとなったと言われている。 降伏した長岡藩は再興を認められたものの、5万石を没収されて2万4千石となり、財政的に窮乏を極めた。藩は北越戦争で壊滅的な被害を受けた上、食糧不足まで起こったが、大参事小林虎三郎や三島億二郎が復興に尽力した。またこのとき、江戸藩邸にいた後の大審院判事・小林藹の公用人日記が藩の立場をよく物語っている。 結局、全国的な廃藩置県に1年先立って明治3年(1870年)に長岡藩は廃藩、柏崎県に編入された。1873年には柏崎県と新潟県が統合され、新潟県の一部となる。藩主の牧野家は華族に列し、子爵を与えられた。維新前最後の藩主の弟にあたる牧野忠篤子爵は、1906年(明治6年)に長岡に市制が施行された際に初代市長となっている。
※この「幕末・維新期の混乱」の解説は、「越後長岡藩」の解説の一部です。
「幕末・維新期の混乱」を含む「越後長岡藩」の記事については、「越後長岡藩」の概要を参照ください。
- 幕末・維新期の混乱のページへのリンク