幕末期の動向
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安政3年(1856年)4月5日、水戸藩小石川藩邸において、徳川斉昭の前で銃・剣・槍の三隊対抗の野試合を披露した。またこの年の間に弥九郎の名を長男の新太郎に継承させ、自身は斎藤篤信斎と名乗った。 安政4年(1857年)、将軍継嗣問題に際し、福井藩主松平慶永は、家臣の中根雪江を通じて、篤信斎に一橋慶喜擁立のために必要な工作を依頼した。篤信斎は二代弥九郎(新太郎)とともに、門下生等を通じて、老中・松平忠固の周辺への工作に尽力した。 安政5年(1858年)、代々木に3,375坪の荒地を購入し、開墾した。門人の土工の訓練とするとともに、茶園とした。 安政6年(1859年)、この頃、安政の大獄により幕府の取り締まりが強化される。水戸とのつながりの深い篤信斎にも捕吏の手が伸びようとしていたとされる。 文久2年(1862年)、長州藩世子・毛利定広(毛利元徳)が代々木山荘を訪ねる。篤信斎は藩論統一して、勤王の大義をとるよう訴えたとされる。 文久3年(1863年)、長州藩の依頼を受け、門人の中から十数名を選抜し、勇士組と称して長州へ派遣した。
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