幕末・維新期
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幕末に至り、1848年(嘉永元年)に著された北浦定政の『打墨縄』(うちすみなわ)では、天武持統陵は見瀬丸山とされ、野口王墓は文武天皇陵に比定された。1854年(嘉永7年)刊の平塚瓢斎の『聖蹟図志』でも、見瀬丸山が天武持統陵とされたが、元禄期には野口王墓が天武持統陵であるという説があったこと、また野口王墓に倭彦命を比定する説があることが付け加えられている。 その後、1862年(文久2年)からはじまる、文久の修陵においては、野口王墓は文武天皇陵として仮修補された。このときには、あくまでも「仮」の修補であったらしい。そのひとつの理由として、野口王墓が文武陵であるという治定に、なお異説があったことが考えられている。谷森善臣の『山陵考』においては、「持統天皇は火葬に付され、かつその骨壷は盗掘されている。天武持統合葬陵にあたる古墳には、石棺がひとつでなければならない。石棺が二つある見瀬丸山は、合葬陵としては不自然である」ことが主張されている。なお野口王墓を文武天皇陵としては「仮修補」の扱いにした可能性がある。しかし、理由は不明であるが、この谷森の説は採用されず、ある時期まで引き続き仮のまま野口王墓は文武陵とされていたようである。
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幕末維新期
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元治元年(1864年)の第1次長州征伐に際しては、幕府軍の総督府(総督は尾張藩主徳川慶恕)が置かれ、切腹した長州藩3家老の首実検が行われた。翌慶応元年(1865年)には事後処理として幕府から派遣された永井尚志らの訊問使(近藤勇・伊東甲子太郎ら新選組幹部も同行)が、当寺で長州藩家老宍戸璣(山県半蔵)への糾問を行っている。また、明治期に入って明治6年(1873年)から明治9年(1876年)までには県庁仮庁舎が寺内に置かれていた。
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幕末維新期
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藩主・板倉勝静は白河藩主・松平定信の実の孫であり、元をたどれば徳川吉宗の玄孫にあたる。そのため、幕府に対する忠誠心が高く、勝静自身も奏者番・寺社奉行・老中と幕府の要職を務めた。しかし、幕府の重職を担うことは藩財政の逼迫を招くため、方谷は勝静の幕政参加に反対していた。また、勝静は方谷の能力を高く買い、藩の外交官として自身の補佐役に任命したが、方谷は内政に比して藩の外交や幕政に対しては能力も意欲も乏しかった。そのため、幕政の補佐役は早々に辞任し、藩の内政には全面的に責務を負うことを条件として、松山に帰国している。そしてもっぱら、藩の復興や弟子の育成に力を注いだ。 慶応元年の建白書においては、清国へ使節を派遣し、先方が服属しない場合には好戦的な大名に「朝鮮・満州・台湾等」を順次「切取」らせることを主張した。方谷の対外膨張論は征韓論の先駆として、徳川慶喜政権における対朝鮮政策にも影響を与えている。 大政奉還とそれに続く鳥羽・伏見の戦いにおいて、老中として大坂城の将軍・徳川慶喜の元にいた勝静は、幕府側に就いて官軍と戦うこととなった(戊辰戦争)。これに対して朝廷は、岡山藩などの周辺の大名に、松山藩を朝敵として討伐するよう命じた。突然の出来事に対して、松山の人々は動揺した。方谷は、主君勝静に従って官軍と戦うよりも松山の領民を救うことを決断し、勝静を隠居させて新しい藩主を立てることと、松山城の開城を、朝廷に伝えた。大石隼雄らと鎮撫使の謝罪書の草案にあった「大逆無道」には死を賭して反論して「軽挙暴動」に変えさせた。
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