幕末期・維新期
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当時、尊皇攘夷派の活動が盛んであり、尊皇攘夷論を唱えるようになる。しかし、師・池田草庵は学問に政治活動は邪道と考える人であったため、意見が相違し北垣らとともに青谿書院を脱退し、京都で平野国臣等と親交を結んだ。 文久3年(1863年)、生野の変に武器周旋方として参加。京・四条木屋町の具足屋・大高又次郎のところで武器調達をするため、京の旅籠・花屋に宿泊しているときに池内蔵太(後に海援隊士)に会い、天誅組大和破陣を聞かされ、北垣らとともに一旦、生野挙兵中止論を説いた。しかし、南八郎(旧名・河上弥市。奇兵隊第2代総監。高杉晋作の親友)らの強硬論が勝り、挙兵は決行された。京で武器を調達していたが搬送の途中で生野破陣を知り、佐中経由で美作路から因州鳥取へ逃れた。 同年、情勢を探るべく、京、江戸へ入り、鳥取藩士の松田正人、河田左久馬、千葉重太郎(桶町千葉道場、北辰一刀流)らの庇護を受ける。当時は、生野の変に参加した者への探索が厳しく、探索から逃れるため、松田正人が選んだ「原六郎」という名に改める。桶町千葉道場に潜伏していたころに、坂本龍馬らと友人になる。のちに原本人が龍馬とは北垣晋太郎(国道)らとともに懇意にし蝦夷地開拓の話をしていたと回想している(原六郎翁伝)。 元治元年(1864年)、桶町千葉道場や長州藩邸に匿われていたが、さらに幕府の探索が厳しくなったため、海路で長州に入る。 慶応元年(1865年)、高杉晋作の紹介により、長州藩の遊撃隊に加入し、四境戦争では高杉に従って小倉口の戦いに従軍した。戦役が一段落した慶応2年(1866年)、普門寺塾(三兵塾)を母体に山口に創設された陸軍学校・明倫館に入学し、大村益次郎から洋式陸軍の手ほどきを受けた。その後は長州藩の軍に属し、討幕運動に関わる。 慶応4年(1868年)1月に始まった戊辰戦争では、鳥取藩に附属する形となった丹波国桑田郡山国郷の志願農兵隊山国隊の司令士として、鳥取藩士の河田左久馬、千葉重太郎、山国郷郷士・藤野斎(映画監督牧野省三の父)らとともに、関東、東北各地を転戦。特に上野戦争(彰義隊の乱)で、覆面部隊として上野山に潜入し官軍を勝利に導く功労をあげる。その後、原は官軍に帰順した旧幕兵で構成された帰正隊隊長として、東北から蝦夷地までを転戦し榎本武揚や土方歳三らが立てこもった五稜郭の戦い(箱館戦争)までを戦い抜く。 明治2年(1869年)、鳥取藩士に取り立てられる。鳥取藩兵の洋式化に従事。さらに、新政府に差し出された鳥取藩軍に入り、第1回天覧閲兵式には歩兵大隊長として参加、「兵の指揮、誠に見事也」と絶賛された。
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