幕末期・維新期とは? わかりやすく解説

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幕末期・維新期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 23:48 UTC 版)

原六郎」の記事における「幕末期・維新期」の解説

当時尊皇攘夷派活動が盛んであり、尊皇攘夷論唱えるうになる。しかし、師・池田草庵学問政治活動邪道考える人であったため、意見相違し北垣とともに青谿書院脱退し京都平野国臣等と親交結んだ文久3年1863年)、生野の変武器周旋方として参加。京・四条木屋町具足屋・大高又次郎のところで武器調達をするため、京の旅籠花屋宿泊しているときに池内蔵太(後に海援隊士)に会い天誅組大和破陣を聞かされ北垣とともに一旦、生野挙兵中止論を説いた。しかし、南八郎旧名河上弥市奇兵隊第2代総監高杉晋作親友)らの強硬論勝り挙兵決行された。京で武器調達していたが搬送途中で生野破陣を知り、佐中経由で美作路から因州鳥取逃れた同年情勢を探るべく、京、江戸へ入り鳥取藩士の松田正人河田左久馬千葉重太郎桶町千葉道場北辰一刀流)らの庇護を受ける。当時は、生野の変参加した者への探索厳しく探索から逃れるため、松田正人選んだ原六郎」という名に改める。桶町千葉道場潜伏していたころに、坂本龍馬らと友人になる。のちに原本人が龍馬とは北垣晋太郎国道)らとともに懇意に蝦夷地開拓の話をしていたと回想している(原六郎翁伝)。 元治元年1864年)、桶町千葉道場長州藩邸に匿われていたが、さらに幕府探索厳しくなったため、海路長州に入る。 慶応元年1865年)、高杉晋作紹介により、長州藩遊撃隊加入し四境戦争では高杉に従って小倉口の戦い従軍した戦役一段落した慶応2年1866年)、普門寺塾(三兵塾)を母体山口創設され陸軍学校明倫館入学し大村益次郎から洋式陸軍の手ほどきを受けたその後長州藩の軍に属し討幕運動関わる慶応4年1868年1月始まった戊辰戦争では、鳥取藩附属するとなった丹波国桑田郡山国郷志願農兵山国隊司令士として、鳥取藩士の河田左久馬千葉重太郎山国郷郷士藤野斎映画監督牧野省三の父)らとともに関東東北各地転戦。特に上野戦争彰義隊の乱)で、覆面部隊として上野山潜入し官軍勝利に導く功労をあげる。その後、原は官軍帰順した旧幕兵で構成され帰正隊長として、東北から蝦夷地までを転戦し榎本武揚土方歳三らが立てこもった五稜郭の戦い箱館戦争)までを戦い抜く明治2年1869年)、鳥取藩士に取り立てられる鳥取藩兵の洋式化に従事。さらに、新政府差し出され鳥取藩軍に入り第1回天覧閲兵式には歩兵大隊長として参加、「兵の指揮誠に見事也」と絶賛された。

※この「幕末期・維新期」の解説は、「原六郎」の解説の一部です。
「幕末期・維新期」を含む「原六郎」の記事については、「原六郎」の概要を参照ください。

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