幕末期の活動とは? わかりやすく解説

幕末期の活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 07:55 UTC 版)

河田景与」の記事における「幕末期の活動」の解説

文久3年1863年)には京都留守居兼務長州藩桂小五郎(後の木戸孝允)らと交流し尊王攘夷運動関与する鳥取藩主池田慶徳は、尊攘派巨魁であった水戸藩主徳川斉昭の五男であり、藩論概ね尊攘派に傾いていた。この頃京都集結していた尊攘派志士は、真木和泉らが計画する攘夷親征大和行幸主張し朝廷内の過激公卿である三条実美らと連携して活動していた。 しかし、幕府信認する孝明天皇はこうした尊攘過激派行動快く思わず、その意を受けた薩摩藩士・高崎正風中川宮朝彦親王らの画策により、薩摩藩会津藩兵力背景八月十八日の政変起こされ長州藩および三条尊攘派公卿京都から一掃される一方鳥取藩内でも河田中心に攘夷親征運動の機運盛り上がっていたが、同藩の重臣黒部之介ら公武合体派は、これらの動きを藩を危険に陥れるのである主張、藩内に深刻な対立生じていた。河田政変前日8月17日夜、同藩の太田右衛門詫間樊六・佐善元立21とともに本圀寺宿泊中の黒部ら4人を襲撃し、3人を殺害1人自刃させた(本圀寺事件)。政変後も親長州派として各勢力周旋。 しかし、翌元治元年1864年)、長州藩禁門の変起こし朝敵となると長州藩通じたとして処罰され、藩地へ送られ幽閉された。慶応2年1866年)、第二次幕長戦争石州口において大村益次郎率い長州軍に幕府側が大敗し浜田藩領攻略されると、河田同志と共に脱藩し長州藩逃れたその後土佐脱藩浪士坂本龍馬らと蝦夷地開拓計画するが、頓挫した

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幕末期の活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 02:18 UTC 版)

三吉周亮」の記事における「幕末期の活動」の解説

江戸加判であった周亮が安政7年3月3日1860年3月24日の上巳(桃の節句)の挨拶のため彦根藩邸へ出仕していた際に桜田門外の変起こり毛利氏井伊氏親戚関係にあったことから周亮は井伊家見舞いし、老中脇坂安宅より彦根藩守衛命じられる文久元年1861年4月桜田門外の変への対応の功労により後藤作の三所物賞与として藩主毛利元周から賜る文久元年1861年9月国元加判役に任じられ長州沿岸警護の任を務める。 文久3年1863年3月養父から家督を継ぐ際に減禄された200石が返され河内介作の刀を藩主毛利元周から賜る元治元年1864年)の第一次長州征討時、長州藩における幕府恭順派の台頭により山口から逃れてきた三条実美五卿功山寺迎える。この五卿功山寺入りが後の薩長和解先鞭となった元治元年8月1864年9月)の下関戦争において長府前田砲台四国艦隊砲撃占領されるなど前田周辺多大な被害遭ったが、前田所領があった周亮は私財前田住民被害補償をした。 下関戦争講和交渉の際には長州藩主毛利敬親から講和談判本使として三吉周亮副使として高杉晋作任命されたが、周亮は本名三吉内蔵介としてではなく宍戸備前偽り講和交渉にあたるのを断ったため、副使高杉晋作宍戸備前養子宍戸刑部名乗り表舞台登場することとなった第一次長州征討最中元治元年12月1865年1月)、高杉晋作による功山寺挙兵起こった際には高杉諸隊と志を同じくしていた周亮が高杉3000両の公金銃器渡した第一次長州征討戦後処理の際、前述通り周亮が高杉晋作など諸隊と関係が深かったため、元治元年12月26日1865年1月23日)、長府藩主毛利元周より切腹命じられる翌日第一次長州征討副総督務めていた越前藩より小倉出頭することを命じられ元治2年1月1日1865年1月27日)に小倉本陣において副総督越前藩松平茂昭薩摩藩西郷隆盛福岡藩家老加藤司書らの連席の上、周亮に対す尋問が行われ、西郷隆盛加藤司書らのとりなしにより周亮の切腹命令取り消され諸隊鎮撫松平茂昭より命じられた(実際に鎮撫に動くことはなかった)。 この尋問先立ち元治元年12月28日1865年1月25日)に周亮は西郷隆盛会談し西郷から高杉晋作との会談斡旋依頼を受け、西郷高杉会談元治2年1月1日1865年1月27日)に下関にて実現させるなど、薩長和解努めた。また薩長同盟の締結の際には坂本龍馬数回にわたり会談し龍馬竹島現在の鬱陵島開拓計画賛同するなど長府藩における龍馬理解者一人であった慶応2年6月1866年7月)に長州藩諸隊一つである報国隊の惣督に就任、翌7月1866年8月)には長府藩購入したイギリス軍艦満珠艦の艦長就任した。、第二次長州征討時には小倉口にて報国隊を率いて戦う。第二次長州征討後、小倉戦争功労により130石を加増される。

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