幕末期の活動
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文久3年(1863年)には京都留守居も兼務。長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)らと交流し、尊王攘夷運動に関与する。鳥取藩主・池田慶徳は、尊攘派の巨魁であった水戸藩主・徳川斉昭の五男であり、藩論も概ね尊攘派に傾いていた。この頃、京都に集結していた尊攘派の志士は、真木和泉らが計画する攘夷親征・大和行幸を主張し、朝廷内の過激公卿である三条実美らと連携して活動していた。 しかし、幕府を信認する孝明天皇はこうした尊攘過激派の行動を快く思わず、その意を受けた薩摩藩士・高崎正風、中川宮朝彦親王らの画策により、薩摩藩・会津藩の兵力を背景に八月十八日の政変が起こされ、長州藩および三条ら尊攘派公卿は京都から一掃される。 一方、鳥取藩内でも河田を中心に攘夷親征運動の機運が盛り上がっていたが、同藩の重臣・黒部権之介ら公武合体派は、これらの動きを藩を危険に陥れるものであると主張、藩内に深刻な対立を生じていた。河田は政変の前日8月17日夜、同藩の太田権右衛門・詫間樊六・佐善元立ら21人とともに、本圀寺に宿泊中の黒部ら4人を襲撃し、3人を殺害、1人を自刃させた(本圀寺事件)。政変後も親長州派として各勢力を周旋。 しかし、翌元治元年(1864年)、長州藩が禁門の変を起こし朝敵となると、長州藩に通じたとして処罰され、藩地へ送られて幽閉された。慶応2年(1866年)、第二次幕長戦争の石州口において大村益次郎率いる長州軍に幕府側が大敗し、浜田藩領が攻略されると、河田は同志と共に脱藩して長州藩へ逃れた。その後、土佐脱藩浪士・坂本龍馬らと蝦夷地開拓を計画するが、頓挫した。
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幕末期の活動
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江戸加判役であった周亮が安政7年3月3日(1860年3月24日)の上巳(桃の節句)の挨拶のため彦根藩邸へ出仕していた際に桜田門外の変が起こり、毛利氏と井伊氏が親戚関係にあったことから周亮は井伊家を見舞いし、老中脇坂安宅より彦根藩邸守衛を命じられる。文久元年(1861年)4月に桜田門外の変への対応の功労により後藤作の三所物を賞与として藩主の毛利元周から賜る。 文久元年(1861年)9月、国元加判役に任じられ、長州の沿岸警護の任を務める。 文久3年(1863年)3月、養父から家督を継ぐ際に減禄された200石が返され、河内介作の刀を藩主の毛利元周から賜る。 元治元年(1864年)の第一次長州征討時、長州藩における幕府恭順派の台頭により山口から逃れてきた三条実美ら五卿を功山寺に迎える。この五卿の功山寺入りが後の薩長和解の先鞭となった。 元治元年8月(1864年9月)の下関戦争において長府の前田砲台が四国艦隊に砲撃、占領されるなど前田周辺は多大な被害に遭ったが、前田に所領があった周亮は私財で前田の住民の被害の補償をした。 下関戦争の講和交渉の際には長州藩主毛利敬親から講和談判本使として三吉周亮、副使として高杉晋作が任命されたが、周亮は本名の三吉内蔵介としてではなく宍戸備前と偽り講和交渉にあたるのを断ったため、副使の高杉晋作が宍戸備前の養子宍戸刑部を名乗り表舞台に登場することとなった。 第一次長州征討最中の元治元年12月(1865年1月)、高杉晋作による功山寺挙兵が起こった際には高杉ら諸隊と志を同じくしていた周亮が高杉へ3000両の公金と銃器を渡した。 第一次長州征討の戦後処理の際、前述の通り周亮が高杉晋作など諸隊と関係が深かったため、元治元年12月26日(1865年1月23日)、長府藩主毛利元周より切腹を命じられる。翌日、第一次長州征討の副総督を務めていた越前藩より小倉へ出頭することを命じられ、元治2年1月1日(1865年1月27日)に小倉の本陣において副総督の越前藩主松平茂昭、薩摩藩の西郷隆盛、福岡藩家老の加藤司書らの連席の上、周亮に対する尋問が行われ、西郷隆盛、加藤司書らのとりなしにより周亮の切腹の命令は取り消され諸隊の鎮撫を松平茂昭より命じられた(実際に鎮撫に動くことはなかった)。 この尋問に先立ち、元治元年12月28日(1865年1月25日)に周亮は西郷隆盛と会談し、西郷から高杉晋作との会談の斡旋依頼を受け、西郷と高杉の会談を元治2年1月1日(1865年1月27日)に下関にて実現させるなど、薩長和解に努めた。また薩長同盟の締結の際には坂本龍馬と数回にわたり会談し、龍馬の竹島(現在の鬱陵島)開拓計画に賛同するなど長府藩における龍馬の理解者の一人であった。 慶応2年6月(1866年7月)に長州藩諸隊の一つである報国隊の惣督に就任、翌7月(1866年8月)には長府藩が購入したイギリス製軍艦の満珠艦の艦長に就任した。、第二次長州征討時には小倉口にて報国隊を率いて戦う。第二次長州征討後、小倉戦争の功労により130石を加増される。
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