幕末・明治維新期
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藩主の勝行は、文久2年(1862年)に二条城定番を命じられ、以後慶応2年(1866年)まで京都に滞在していた。 文久3年(1863年)末から九十九里地方で始まった真忠組騒動において、多古藩は幕府から鎮圧を命じられ(ほかに佐倉藩、一宮藩、および東金に飛び地領があった福島藩に出動が命じられた)、関東取締出役の指揮下で行動を行った。 慶応4年/明治元年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いを受け、多古藩は新政府に恭順の意を示すとともに、2月24日に藩主勝行は徳川家との訣別を表すため松平姓を元の久松姓に戻した。戊辰戦争時には総野鎮撫府の命を受けて香取郡(藩領のほか、近隣の旧旗本領を含む)の警備に当たり、「巡邏隊」を編成した。7月に旧旗本領の管理は上総安房監察兼県知事(のちの宮谷県知事)柴山文平に移管される。 翌明治2年(1869年)6月25日の版籍奉還で勝行は知藩事となったが、8月5日に38歳で死去した。家督・知藩事は久松勝慈が継いだ。明治4年(1871年)7日、廃藩置県により多古藩は廃藩となり、多古県が置かれる。多古県は同年11月に新治県に編入された。 久松勝慈は、1884年(明治17年)の華族令によって子爵となる。1889年(明治22年)に町村制施行に伴って多古村が編成された際、初代村長に就任した。
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幕末・明治維新期
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安政2年(1855年)に大坂加番代を務め翌年交替。安政6年(1859年)10月17日に江戸城本丸が火災になった際には一ツ橋門の警衛にあたり、賞詞を受けている。このほか、日光祭礼奉行や辻固めなどの課役を果たしている。 文久2年(1862年)閏8月、二条城定番に任じられ、役料3000石を支給され、与力20騎、同心100人を付けられた。二条城定番の職務は翌文久3年(1863年)1月に一旦辞職するが、引き続き京都に滞在し、3月の将軍徳川家茂の参内に供奉した。同年6月には二条城勤番となり、八月十八日の政変の際には二条城内の警衛指揮にあたった。 なお、勝行が京都滞在中の文久3年(1863年)末には、九十九里地方で真忠組騒動が発生していた。多古藩は幕府から鎮圧を命じられ(ほかに佐倉藩、一宮藩、および東金に飛び地領があった福島藩に出動が命じられた)、関東取締出役の指揮下で行動を行った。このことで元治元年(1864年)11月に褒詞を受けている。この間の元治元年(1864年)7月に大蔵少輔に遷任する。 慶応2年(1866年)に京都での務めを辞して江戸に帰還。 慶応3年(1867年)10月の大政奉還後、朝廷は11月に大名を京都に召集するが、藩主勝行は病気を理由として参集しなかった。口実であるだけでなく、この後の経過からは実際に体調不良であったとも推測される。 慶応4年/明治元年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いを受け、多古藩は新政府に恭順の意を示すとともに、2月24日に藩主勝行は徳川家との訣別を表すため松平姓を元の久松姓に戻し、3月に参内を果たした。戊辰戦争時には総野鎮撫府の命を受けて香取郡(藩領のほか、近隣の旧旗本領を含む)の警備に当たり、「巡邏隊」を編成した。7月に旧旗本領の管理は上総安房監察兼県知事(のちの宮谷県知事)柴山文平に移管される。10月、勝行は病気のため東京勤番が不可能であるとして帰藩療養が認められた。 翌明治2年(1869年)6月25日の版籍奉還で勝行は知藩事となったが、8月5日に38歳で死去した。家督・知藩事は久松勝慈が継いだ。
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