幕末・明治維新
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1858年(安政5年)、日米修好通商条約が締結されると、1860年(万延元年)にはイギリス人が門司の楠原に上陸し、村人が大騒動をするということがあった。翌1861年(文久元年)にもイギリス船が門司沖に停泊し、測量を行っている。小倉藩の家老小宮民部は、海防に力を入れ、1863年(文久3年)、大里、葛葉、門司などの要所に砲台を築いた。 この年、朝廷から攘夷決行を迫られた将軍徳川家茂は、各藩に5月10日をもって攘夷決行すべしとの通達を出した。5月、長州藩の久坂玄瑞を中心とする尊王攘夷派は、田野浦沖に停泊していたアメリカ商船ペンブローク号に藩の軍艦で砲撃を行い、続いてフランス蒸気船、オランダ軍艦を砲撃した。長州藩の使者が、小倉藩に、すぐに攘夷を実行するように迫ったが、小倉藩は、外国船から攻撃を受けていないのに発砲すべきとの幕命を受けていないとしてこれに応じなかった。6月、アメリカ軍艦とフランス軍艦が報復のため関門海峡に来襲し、下関を攻撃したが(下関事件)、小倉藩は静観し、これが長州藩の恨みを買うこととなった。小倉藩が攘夷の要求に応じないことを見て、高杉晋作の奇兵隊を中心とする長州藩兵約110人が、田野浦に上陸し、砲台を占拠するという挙に出た。小倉藩が幕府に長州藩の横暴を訴えたので、幕府は朝陽丸で中根市之丞を下関に派遣したが、長州藩は強硬であった。ところが、8月18日、朝廷で公武合体派により長州藩が追放される事件(八月十八日の政変)が起き、9月、長州藩兵は田野浦から引き揚げ、小倉藩は窮地を脱した。 1864年(元治元年)、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国艦隊が下関を砲撃する事件があり、小倉藩は門司の海岸に警備の兵を配したが、藩士は見物に終始した。同じ年、禁門の変を機に幕府による第一次長州征討があり、唐津藩、福岡藩、薩摩藩、熊本藩、柳川藩、佐賀藩、久留米藩などの藩兵4万人超が小倉に集結したが、西郷隆盛の仲介により開戦は回避された。 1865年(元治2年)、長州藩では高杉晋作ら尊攘倒幕派が政権を奪取し、幕府は第二次長州征討(幕長戦争)に踏み切った。幕府から小倉に派遣された老中小笠原長行は、小倉藩に長州への討ち入りを命じ、小宮民部率いる小倉藩は門司の田野浦や門司村、楠原村に陣を張ったが、他藩の応援はなかった。6月17日、長州軍が奇襲に出、軍艦と壇ノ浦砲台から田野浦と門司を砲撃した。山縣狂介率いる奇兵隊や報国隊が古城山東の大久保海岸に上陸し、古城山の砲台を奪取し、一旦撤退した(田野浦の戦い)。7月3日、長州軍は2度目の上陸作戦に出た。奇兵隊が門司に上陸、大里に進軍し(大里の戦い)、小倉藩は幕府軍や他藩の応援が得られないまま赤坂まで退却を強いられた。7月27日、それまで傍観していた熊本藩が長州藩に砲撃し、幕府方は初めて勝利を収めたものの、熊本藩は一転して撤退し、小笠原長行も戦線から逃亡するに至り、小倉藩は8月1日に小倉城を自ら焼いて田川郡香春まで撤退を余儀なくされた。 1866年(慶応2年)、将軍を継いだ徳川慶喜は、小倉口の敗戦を受けて長州征討の撤兵を布告した。小倉藩は、薩摩藩、熊本藩に長州藩との仲介を依頼し、企救郡を長州藩が預かるという内容で和議が成立した。 明治維新後の1869年(明治2年)8月、長州藩が版籍奉還を行い、企救郡は日田県の直轄地となった。しかし、長州藩は撤退せず、支配を続けていた。香春藩(旧小倉藩)は新政府に企救郡の返還を願い出たが、受け入れられなかった。この年11月、企救郡新道寺村で一揆(企救郡百姓一揆)が起こり、門司方面まで騒動が広がり、居宅や家財の打壊しも発生した。長州藩は、このこともあって、1870年(明治3年)2月、企救郡から引き揚げた。日田県知事松方正義の企救郡巡視が行われるなど、新政府による行政が始まった。
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