林田藩主建部家
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戦国時代後期の建部寿徳(高光、1536年 - 1607年)は、近江六角氏(佐々木嫡流)に仕えていたが、六角氏が没落した後は織田信長に仕え、中川重政や丹羽長秀の下で吏僚として領内統治に敏腕を振るった。本能寺の変で信長が死去し、長秀もその3年後に没すると羽柴秀吉に仕え、若狭国小浜、ついで摂津国尼崎の郡代として統治を任されるなど重用された。いわゆる豊臣恩顧の一族で、寿徳の子の建部光重は関ヶ原の戦いの際には西軍に属し、一時所領を没収されたが、縁戚の池田輝政の執り成しによって許され改易を免れた。 慶長15年(1610年)に光重が没し、嗣子の建部政長が8歳で家督と尼崎郡代の職を継ぐ。『寛政重修諸家譜』(以後『寛政譜』)によれば、政長が幼少であったために豊臣家に所領を没収されそうになり、外祖父である池田輝政が徳川家康に言上したことで跡職の相続が認められたという。大坂の陣では徳川氏に味方し、尼崎の代官領から大坂城への兵糧搬入を阻止し、尼崎城を固守して大坂方からの攻撃を断念させるなど功績を挙げ、戦後に1万石の大名として復帰を果たした(尼崎藩)。元和3年(1617年)に政長は播磨林田藩に移され、以後幕末・明治維新期まで林田藩主家として続いた。明治維新の後は華族に列し、子爵を賜った。 また、政長の異母兄の有馬吉政は母方の実家である摂津有馬氏の養子に迎えられて後に紀州藩に仕官、その子孫で林田藩主建部政宇(政長の子)の娘婿でもある有馬氏倫は徳川吉宗の側近としての功によって伊勢西条藩に取り立てられている。
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