林田藩主建部家とは? わかりやすく解説

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林田藩主建部家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 01:51 UTC 版)

建部氏」の記事における「林田藩主建部家」の解説

戦国時代後期建部寿徳高光1536年 - 1607年)は、近江六角氏佐々木嫡流)に仕えていたが、六角氏没落した後は織田信長仕え中川重政丹羽長秀の下で吏僚として領内統治敏腕振るった本能寺の変信長死去し、長秀もその3年後に没する羽柴秀吉仕え若狭国小浜、ついで摂津国尼崎郡代として統治任されるなど重用された。いわゆる豊臣恩顧一族で、寿徳の子建部光重関ヶ原の戦いの際には西軍属し一時所領没収されたが、縁戚池田輝政執り成しによって許され改易免れた慶長15年1610年)に光重が没し嗣子建部政長8歳家督尼崎郡代の職を継ぐ。『寛政重修諸家譜』(以後寛政譜』)によれば、政長が幼少であったために豊臣家所領没収されそうになり、外祖父である池田輝政徳川家康言上したことで跡職相続認められたという。大坂の陣では徳川氏味方し尼崎代官領から大坂城への兵糧搬入阻止し尼崎城固守して大坂方からの攻撃断念させるなど功績挙げ戦後1万石の大名として復帰果たした尼崎藩)。元和3年1617年)に政長は播磨林田藩移され以後幕末・明治維新期まで林田藩主家として続いた明治維新の後は華族列し子爵賜ったまた、長の異母兄有馬吉政母方実家である摂津有馬氏養子迎えられて後に紀州藩仕官その子孫林田藩建部政宇(政長の子)の娘婿でもある有馬氏倫徳川吉宗側近としての功によって伊勢西条藩取り立てられている。

※この「林田藩主建部家」の解説は、「建部氏」の解説の一部です。
「林田藩主建部家」を含む「建部氏」の記事については、「建部氏」の概要を参照ください。

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