北浦定政とは? わかりやすく解説

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北浦定政

読み方きたうら さだまさ

山陵研究家通称義助、号は霊亀亭。父は義十郎大和国生。富田泰洲、中村良臣万年亀雄斉藤拙堂師事し国学本居内遠に学ぶ。国中帝陵平城京旧跡測量する著書に『大和国班田坪割図』『平城大内敷地坪割図』『夙考』等がある。明治4年(1871)歿、55才。

北浦定政(きたうらさだまさ 1817-1871)

 歴史地理学者、「平城宮大内裏跡坪割図」の作成
北浦定政は、山城国添上郡古市村(現奈良市古市村)に町人の子として生まれた
 天保3年(1832)父の死後古市奉行所銀札会所の手代として出仕し勤め傍ら和歌漢学国学学んだその中で蒲生君平著した山稜志」に出会ったことが山陵調査始めきっかけとなった嘉永元年(1848)には、「山稜志」を改定した「打墨縄」を刊行したその後平城京条里研究積極的に進め嘉永5年に「平城宮大内裏跡坪割図」を著した
 これらの功績津藩士に登用された後も、神社野鳥班田条里など幅広い分野調査行いその結果多く著作として残し陵墓調査修復でも功績をあげた。
 測量では、歩測のほか車が一回転する1間を表す測量車を作成使用したといい、同図には条里の坪(1町四方)の交点には○印条里の境には△印、氏神には鳥居の印、井戸には#の印など、地図図式記号取り入れ工夫をしている。定政地名についても、歴史的地名現存地名とを照合し平城京跡を復元するなど歴史地理学実践した
 このように、「平城宮大内裏跡坪割図」は、古記録との照合精査踏査行ってこれを作成したもので、のちに棚田嘉十郎(1860-1921)が作製した平城京大内裏敷地図」は、これを一般向けに書き改めたのである定政功績は、条坊条里研究嚆矢であり、平城宮跡地図作成したことが、後の棚田らの活動相まって、宮跡保存端緒作ることにつながったことにある。
 晩年は、光仁天皇陵などの陵長などを勤め明治4年(1871)に55歳没した
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