山陵探索・治定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 02:32 UTC 版)
現在につながる天皇陵の探索および治定は、そのほとんどが江戸時代に行われており、一部のものについては明治時代以降にまでずれこんだ。 江戸時代には、尊皇思想の勃興とともに、天皇陵探索の気運が高まり、松下見林、本居宣長、蒲生君平、北浦定政、谷森善臣、平塚瓢斎などが、陵墓の所在地を考証したり、現地に赴いたりしており、幕府による修陵もこうした動きと無関係ではない。 現在の歴史学的・考古学的知見に基づき同意できるものは、奈良時代までの天皇陵では、天智天皇陵、天武・持統天皇陵など数か所程度とされる。平安時代~室町時代のものは、薄葬によって位置を特定することが困難なものや陵が置かれた寺院が廃滅したことによって所在が不明になってしまったものなどが多く、ますます歴史学的・考古学的信頼度は低下する。後白河天皇の法住寺陵、後醍醐天皇の塔尾陵などのように近世にいたるまで管理され、伝えられたものはむしろ少数派である。
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