仏教との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 05:28 UTC 版)
「日本の仏教」も参照 『日本書紀』によると552年に百済の聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が欽明天皇に献上され仏教が初めて伝来したとされている。仏教が伝来した際に仏教の信仰の可否について家臣達により議論されることになり、仏教容認側の蘇我氏と反対側の物部氏との間で可否を巡って対立し始め、用明天皇の後継者争いに繋がり、物部氏が滅ぼされると仏教信仰に傾き、物部氏討伐軍にも加わっていた用明天皇の第二皇子である聖徳太子により法興寺や法隆寺が建立され儒教や仏教の思想が反映された十七条憲法が作られるなどし、皇室は仏教と深い繋がりを持っていく。 また、伝統的に天皇自ら寺を建てるようになり、天武天皇は大官大寺、持統天皇は薬師寺を建立するなどし、聖武天皇の代に入ると鎮護国家という政策が盛んになり、国情不安を鎮撫するために国分寺を各地に作り、東大寺が建立される。 平安時代に入るとこれらの寺院群が政治的な権力を持つことになり、それが桓武天皇により平安京への遷都へと繋がり、日本古来の仏教と対抗させるために空海と最澄を遣唐使とともに唐に送り密教を学ばせ、空海は真言宗、最澄は天台宗を開き、それぞれ空海は高野山を、最澄は比叡山を下賜承わった。また白河天皇を始めとする天皇が譲位後に出家し、法皇と名乗る事も多くなる。 その後、江戸時代までは仏教とも深く繋がっており、法事は仏式で行われていた。1871年(明治4年)までは宮中の黒戸の間に仏壇があり、歴代天皇の位牌があった。天皇や皇族の位牌は「尊牌」と称された。しかし、明治時代に入ると明治政府の神道重視の政策により神仏分離が行われ、1000年以上続いた仏式の行事はすべて停止され、尊牌は京都の泉涌寺にまとめられ、皇室は仏教とは疎遠となる。
※この「仏教との関係」の解説は、「天皇」の解説の一部です。
「仏教との関係」を含む「天皇」の記事については、「天皇」の概要を参照ください。
仏教との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 15:00 UTC 版)
唐代にも皇帝の面前で三教が論争を行うことがあった。この頃、仏教は、西域から逐次伝わるさまざまな経典の間に整合性を持たせる必要から系統的な解釈を重ね、教相判釈という中国独自の価値序列を編み出し思弁性を高めていたが、この仏教の動きに対抗し、道教側も仏教的な要素を吸収しながら理論の深化を推し進めた。たとえば、唐代を代表する道教経典『太上一乗海空智蔵経』(『海空経』)や『太玄真一本際経』、『大乗妙林経』などは「道性」(「道」を具えた本性)を誰しもが持つと説いているが、これは仏教の『涅槃経』の「仏性」の概念に影響を受けている。ほか、司馬承禎の『坐忘論(中国語版)』は、仏教の天台止観の方法を取り入れつながらも、『荘子』の思想を基調としており、道教の修養論として後世大きな影響を与えた。
※この「仏教との関係」の解説は、「道教の歴史」の解説の一部です。
「仏教との関係」を含む「道教の歴史」の記事については、「道教の歴史」の概要を参照ください。
仏教との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 06:12 UTC 版)
謝霊運は廬山の慧遠を尋ねた時、遠師に心服して留まった。この時から仏教に造詣を深くし、慧厳・慧観と共に、法顕訳の『六巻涅槃経』と曇無讖訳の『北本涅槃経』を統合改訂し、南本『大般涅槃経』を完成させ、竺道生によって提唱された頓悟成仏(速やかに仏と成る事ができる)説を研究・検証した「弁宗論」などを著した。 また、彼は鳩摩羅什訳出の『金剛般若波羅蜜経』を注釈した『金剛般若経注』なども著している。なお同名の注釈書としては僧肇が撰著した同名の『金剛般若経注』が最初とされる。しかし僧肇撰の説には多くの疑問が提出されており、宋の曇応の『金剛般若波羅蜜経采微』などには「謝霊運曰く」として多く引用され、僧肇の注釈書と類似点が多い。このことから近代に至っては、僧肇撰とされる「金剛般若経注」が実は謝霊運の著作である可能性が高いといわれている。彼の著作物に関してはいまだ充分に検証されたものではないため、今後これらを総合的に検証し直す必要性が望まれている。 もっとも謝霊運は、仏教への造詣はあったものの、その深い奥義を身をもって体現することがなく、往々にして不遜な態度があったと伝えられることから、仏教徒としての評価は決して高いものではない。吉田兼好の『徒然草』第108段に「謝霊運は、法華の筆受なりしかども、心常に風雲の思を観ぜしかば、恵遠、白蓮の交りを許さざりき」とあるように、慧遠の白蓮社に入ることが許されなかったといわれる。
※この「仏教との関係」の解説は、「謝霊運」の解説の一部です。
「仏教との関係」を含む「謝霊運」の記事については、「謝霊運」の概要を参照ください。
仏教との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/25 13:17 UTC 版)
上述したようなガナ・サンガ国の特徴は初期の仏教徒達に理想的な政体と見なされた。仏典はヴァッジ国の政体の特徴として以下の点を上げている。 しばしば会議を開き多くの人が集まる。 共同で行動する。 伝統的な法を破らず、いたずらに新法を定めない。 老人を敬い彼らの言葉を聴く。 家族の婦女を暴力を持って連れ出し、捕え留める(同棲する)事をしない。 都市の内外にある祠廟(チャイティヤ)を崇め供物を絶やす事がない。 阿羅漢を歓待し保護する。 これらの法は釈迦がヴァッジ国に対し教示したものであるとされているが、実際には釈迦以前より整備されていたと考えられる。 仏典ではこれを衰亡を避けるための7つの法(satta aparihaariyaa dhammaa)と呼んでいる。そしてガナ・サンガ国の政体的特長は仏教教団の構成に大きな影響を与えた。恐らく初期の仏教教団の組織はガナ・サンガ国のそれを手本として形成されたと考えられる。
※この「仏教との関係」の解説は、「ガナ・サンガ国」の解説の一部です。
「仏教との関係」を含む「ガナ・サンガ国」の記事については、「ガナ・サンガ国」の概要を参照ください。
仏教との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 04:39 UTC 版)
現在パーリ語は上座部仏教の経典と儀式に用いられる文語(典礼言語)として形を留めるのみであり、元来どの地方の方言であったかは不明確である。上座部仏教では自らの経典を仏の直接の教えとする観点から北東部のマガダ語と同一と見られてきた。しかし現在ではアショーカ王碑文との比較からインド中西部のウッジャイン周辺で用いられたピシャーチャ語の一種とする説が有力である。ただし、マガダ語とパーリ語は、言語的にそれほど相違しておらず、語彙をほぼ共有し、文法上の差異もさほどないなど、むしろかなり近似的な関係にあったと推定されている。 最古の仏教文献は、釈迦の故郷であるマガダ地方の東部方言からパーリ語へ翻訳されたと推定されている。このために、パーリ語はアショーカ王碑文のうち西部のギルナールの言語に最も近いが、その中にマガダ語的な要素が指摘されている。 大乗仏教でサンスクリット語が多用されたのに対し上座部仏教においてパーリ語が多用されたのは、仏教伝道において民衆に分かりやすい口語(すなわちプラークリット)を利用することでその効果を高めるためであったからと推測される。後に、観念的な議論を特徴とする大乗仏教が盛んになると専門性の低いとされたパーリ語よりもサンスクリットが用いられることになる。 パーリ語などのプラークリットはサンスクリットとインド近代語の中間の発展形態であり、またサンスクリットと同様クメール語など東南アジアの言語にも大きな影響を与えた。
※この「仏教との関係」の解説は、「パーリ語」の解説の一部です。
「仏教との関係」を含む「パーリ語」の記事については、「パーリ語」の概要を参照ください。
仏教との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 07:52 UTC 版)
詳細は「寺請制度」を参照 幕府は寺請制度(檀家制度)として宗門改に仏教勢力を用いた。幕府は民衆をいずれからの仏教宗派に所属させ、その証明を持ってキリシタンではないことを証明させた。 宗門改に仏教を用いた最初の例は、慶長19年(1614年)に京都所司代板倉勝重が棄教したキリシタン(転びキリシタン)から寺手形を取った物である。これはあくまで転びキリシタンに限定したもので、民衆全体に施行されたわけではない。少なくとも、寺請制度が制度として全国的に施行されるようになるのは、寛永12年(1635年)に武家諸法度を改定してからである。寺請制度が完成するのは寛文11年(1671年)に宗門人別改帳が法整備されてからで、これ以降、武士・町民・農民など階級問わず民衆は原則として特定の仏教寺院(不受不施派を除く檀那寺、藩によっては神社もあった)に属することが義務となり、その情報は全て寺院に把握された。 結果として仏教は幕府体制に取り込まれることとなり、やがて寺院は汚職の温床となって僧侶の世俗化などの問題を招く。明治になると尊皇思想の高まりや、神道国教化運動などによって神道優位の風潮が起こり、折からの仏教への批判は大きな物となっていき、やがて廃仏毀釈運動へと繋がっていく。 一方で、明治政府は江戸幕府のキリスト教禁制を継承し、宗門改制度も継承していた。先述の仏教への批判、神道の高まりもあって明治政府は明治4年に民衆を神社の氏子とする氏子調を発令する。これは檀家制度を神道に置き換えたものである。しかし、明治6年(1873年)のキリスト教禁止政策取り止めに伴い、氏子調もわずか2年で廃止された。
※この「仏教との関係」の解説は、「宗門改」の解説の一部です。
「仏教との関係」を含む「宗門改」の記事については、「宗門改」の概要を参照ください。
- 仏教との関係のページへのリンク