北周との戦いと逸話、伝説の誕生
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「高長恭」の記事における「北周との戦いと逸話、伝説の誕生」の解説
564年、北周の宰相の宇文護は母の閻氏が北斉で生きていることを知ると、身柄の返還と両国の和議を申し出てきた。武成帝は重臣の段韶の反対を聞かずに閻氏を送ると、果たして宇文護は約定を破り11月に宇文憲・尉遅迥・達奚武らに10万を預けて洛陽を包囲させた。高長恭と斛律光は詔勅により救援に向かったが、邙山に陣取った北周軍のために麓で足止めされてしまう。しかし段韶が晋陽から精鋭1000騎を連れて来援したため、段韶が左軍、高長恭が中軍、斛律光が右軍となって北周軍と対峙した。段韶が宇文護の不義を謗ると北周軍が山を登って攻撃してきたため、北斉軍は退却しながら疲弊を待って反撃したため大勝した。 その後、高長恭は500騎を率いて北周軍に対して再突入し、洛陽城西北角の金墉城にたどりついた。しかし、包囲が厳しかったため、城の守備兵たちには高長恭の率いる部隊が味方かどうか分からなかった。そこで高長恭が兜を脱いで素顔をさらしたところ(当時、将兵は戦闘時に兜とともに鉄の仮面をつけ、頭と顔を防御していた)、味方であること知った守備兵たちは弩を下ろして開門し、このことにより北周に勝利したという。北斉の兵士たちは「蘭陵王入陣曲」という歌謡を作り、彼の勇猛を称えた。この逸話が変化し、唐代には「その美貌が兵卒たちの士気を下げることを恐れ、常に仮面をつけて戦っていた」という、現在知られている伝説が誕生した(唐代の『教坊記』には「大面出北斉。蘭陵王長恭性膽勇,而貌若婦人。自嫌不足以威敵,乃刻木為假面,臨陣著之。」とあり、自身の婦人のような容貌が、敵を威圧するのに足りないことを嫌って、木面をつけて戦陣に臨んだ、と記されている)。 564年12月、開府儀同三司(三公と同等の特権)に加えて尚書令となり、後に司州牧・青瀛二州を歴任した。570年7月に録尚書事となり、翌571年2月に太尉に昇る。同月に北周が来寇したため高長恭は段韶・斛律光らと共に迎撃を命じられた。一行は3月末に西の国境に到着したが、その地の柏谷城は極めて険峻な立地で諸将は攻囲を躊躇った。しかし段韶が「柏谷城を落とさねば国家に害を残す。いま城は高いといっても城内は狭く火矢で一網打尽に出来る」と説得したため、北斉軍は城を陥落させるなど大勝し、その地に華谷城を築いて帰還した。 また6月に段韶と共に定陽城を攻撃していたが、支城が落ちないうちに段韶が病に倒れてしまう。段韶の兵を引き継いだ高長恭は、病床の段韶から計略を授かると、城の南東を手薄にして城兵を誘い、その地に精鋭1000余人を伏兵として潜ませた。すると思惑通り夜間に城兵が出てきたため、これを撃破して城を陥落させ城主の楊範を捕縛した。さらに北周の宇文憲が汾州への助力の為に、将軍の譚公会に石殿城を築かせると高長恭は段韶と共に大軍でこれを攻めた。そうして北周の大将軍の韓歡を退かせたが、宇文憲が自ら督戦して戦況が膠着したため日暮れには両軍共に撤退した。こうした前後の戦功により鉅鹿・長楽・楽平・高陽などの郡公の別封を受ける。また567年には使持節・都督青州諸軍事および青州刺史に任じられる。
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