北周との戦いと逸話、伝説の誕生とは? わかりやすく解説

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北周との戦いと逸話、伝説の誕生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 10:10 UTC 版)

高長恭」の記事における「北周との戦いと逸話、伝説の誕生」の解説

564年北周宰相宇文護は母の閻氏が北斉生きていることを知ると、身柄返還両国和議申し出てきた。武成帝重臣段韶反対聞かずに閻氏を送ると、果たし宇文護約定破り11月宇文憲尉遅迥達奚武らに10万預けて洛陽包囲させた。高長恭斛律光詔勅により救援向かったが、邙山に陣取った北周軍のために麓で足止めされてしまう。しかし段韶晋陽から精鋭1000騎を連れて来援したため段韶左軍高長恭中軍斛律光右軍となって北周軍と対峙した。段韶宇文護不義謗る北周軍が山を登って攻撃してきたため、北斉軍は退却しながら疲弊待って反撃したため大勝したその後高長恭500騎を率いて北周に対して再突入し洛陽城西北角の金墉にたどりついた。しかし、包囲厳しかったため、城の守備兵たちには高長恭率い部隊味方かどうか分からなかった。そこで高長恭兜を脱いで素顔さらしたところ(当時将兵戦闘時に兜とともに仮面をつけ、頭と顔を防御していた)、味方であること知った守備兵たちは弩を下ろして開門し、このことにより北周勝利したという。北斉兵士たちは「蘭陵王入陣曲」という歌謡作り彼の勇猛称えた。この逸話変化し唐代には「その美貌兵卒たちの士気下げることを恐れ、常に仮面をつけて戦っていた」という、現在知られている伝説誕生した唐代の『教坊記』には「大面出北斉。蘭陵王長恭性膽勇,而貌若婦人。自嫌不足以威敵,乃刻木為假面,臨陣著之。」とあり、自身婦人のような容貌が、敵を威圧するのに足りないことを嫌って、木面をつけて戦陣臨んだ、と記されている)。 564年12月開府儀同三司三公同等特権)に加えて尚書令となり、後に司州牧・青瀛二州歴任した570年7月録尚書事となり、翌571年2月太尉昇る同月北周来寇したため高長恭段韶斛律光と共に迎撃命じられた。一行3月末に西の国境に到着したが、その地の柏谷城は極めて険峻立地諸将攻囲躊躇った。しかし段韶が「柏谷城を落とさねば国家に害を残す。いま城は高いといって城内狭く火矢一網打尽出来る」と説得したため、北斉軍は城を陥落させるなど大勝し、その地に谷城築いて帰還した。 また6月段韶と共に定陽城を攻撃していたが、支城落ちないうちに段韶が病に倒れてしまう。段韶の兵を引き継いだ高長恭は、病床段韶から計略授かると、城の南東手薄にして城兵誘い、その地に精鋭1000余人伏兵として潜ませた。すると思惑通り夜間城兵出てきたため、これを撃破して城を陥落させ城主楊範捕縛した。さらに北周宇文憲汾州への助力為に将軍の譚公会に石殿城を築かせると高長恭段韶と共に大軍でこれを攻めた。そうして北周大将軍の韓歡を退かせたが、宇文憲が自ら督戦して戦況膠着したため日暮れには両軍共に撤退したこうした前後戦功により鉅鹿長楽楽平高陽などの郡公の別封を受ける。また567年には使持節都督青州諸軍事および青州刺史任じられる

※この「北周との戦いと逸話、伝説の誕生」の解説は、「高長恭」の解説の一部です。
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