薊山合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 23:09 UTC 版)
古文献(『薊山 櫻雲記』)の記録によると、安保原合戦と同時期に起こった為、薊山安保原合戦とも言う。現在の児玉町入浅見周域で生じた合戦と見られ、延元2年(1337年)9月頃とされる(時期については『元弘日記』裏書より)。『元弘日記』に、官軍皆有利とある。古書には、奥州の官軍武州薊山合戦の事とある。山とは、浅見の南の生野山から北の富田(現本庄市)の向山を指したものと見られる。この合戦により、児玉氏の菩提寺である西光寺と庄氏の菩提寺である宥荘寺が焼失したと伝えられ、本庄台地も戦乱となった事が分かる(西光寺は児玉町下浅見、宥荘寺は本庄市栗崎)。結果として、初期の本庄氏の系図にも混乱が生じたと見られる。南北朝時代、児玉党の本宗家は本庄氏であり、当然の事ながら、時家の曾孫である国房(時家系の4代目)以降の本庄氏が参戦したものと見られる。国房が五十子の所領争いを起こしてから23年後の事であるから国房自身が参戦していた可能性もある。
※この「薊山合戦」の解説は、「本庄国房」の解説の一部です。
「薊山合戦」を含む「本庄国房」の記事については、「本庄国房」の概要を参照ください。
- 薊山合戦のページへのリンク