宥荘寺のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 14:21 UTC 版)
頼家の夫人である妙清禅尼によって、13世紀初めの建仁2年(1202年)に建立された菩提寺が宥荘寺である。しかし14世紀中頃の延元2年(1337年)の薊山合戦で寺は焼失。さらに16世紀中頃の天文24年(1555年)に頼暁と言う紀州の僧侶が本庄氏ゆかりの霊場が無くなるのを惜しみ、西光寺(児玉党祖である有道惟行が浅見山、本庄で言う大久保山に建てた寺)と宥荘寺を一か所に再建した。これを宥勝寺と言う。山号は西光山。 宥荘寺の名の由来は、その名の通り、「荘(庄)氏を宥(なだ)めるための寺」である。 宥勝寺の伝えによれば、天文6年(1537年)の頃に、上杉氏と北条氏が浅見山合戦を起こし、二度目の焼失を経験した。寺主は戦火を逃れ、16年もの間、寺は主不在の状態だったとされる。
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