宦官になる目的での性器切断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 05:03 UTC 版)
「性器切断」の記事における「宦官になる目的での性器切断」の解説
皇帝や王などの権力を有する者は、奴隷や召使など、庶務雑用その他を担わせる多くの部下を抱えていたが、正室・側室の別を問わず、またそれがどちら側からによるものであるかに関わらず、強姦もしくは不倫といった関係に到るおそれがあることに危惧する者もいた。また、少年を妾として従えることもあり、こうした部下や妾が宦官とされる国や地域が存在した。 中国の皇帝は、後宮に女性からの誘惑に屈することのない宦官しか住まわせなかった。宦官の供給源は、当初は宮刑を受けた罪人を当てたが、やがて後宮の役人を志願して去勢する「自宮」が、盛んになってくる。たとえば、春秋時代の斉の桓公の家臣であった 豎刁(ジュチョウ)は、桓公の後宮を管理することを願い出たのち、短刀で陰茎、陰嚢もろとも切断したと伝えられている。こうして隋の時代には、去勢が刑罰にならなくなり、五刑から正式に宮刑が消えた。 唐滅亡直前の901年から北宋建国後の971年まで、広州に首都をおいた南漢国は、南海貿易商人上がりの劉氏が興したが、5代にわたる国王は徹底した宦官登用者で、家臣のうちの有能な者や文官試験の優秀者など、ぜひ国家が必要とする者は、まず去勢してから用いた。 宋代には自宮が当然のこととなり、正式に自宮する手続きが定められた。明代の政府の公式記録である「皇明実録」は、「今や愚民は争って自分の子や孫を去勢して、栄華を夢見ている」と記録している。こうして明代には宦官になる目的は権力を握るためとなるが、清代になって宦官は政治の表舞台からは遠ざけられた。 中国では「切り師」と呼ばれる宦官手術専門の職人が現れ、免許制度が敷かれていたが、実際にはいわゆるモグリの切り師が闇商売をしており、支払い次第で宦官手術が行われることが横行していた。また、誘拐して手術を行い、宮廷に売り込むといった人身売買的なことも行われていたという。「切り師」は免許制ではあったがほぼ世襲制であり、こうした訓練のために宦官になる如何に関わらず練習目的で手術を施された例もあることは想像にかたくない。 現在ではあまり使われることはないが、中国には陰茎を表す漢字「」が存在する。「了」を反転された形状をしているが、男性器が勃起した様子を示した象形文字であるとされている。また幼いことを意味する「幺」を偏(へん)に持つ、子どもの陰茎を表すための字「」も用意されていた。こうした文字が個別に存在することからも、いかに童宦が多かったかを物語っているといえる。なお、中国語には昔から現代に到るまで、文字を単数で表さず、2文字並べて表現する習慣があり、「」が日本語に音訳されたものが「ちんちん」であるとも言われている。また、この文字に宦官手術を受けた証明である「宝」を続けた「宝」が「ちんぽう」となったとも言われる。 なお、海綿体は陰茎の根元よりも更に下腹部内部へと伸びており、切断術を行っても勃起は可能である。完全去勢が原則ではあるが、少なくとも術後しばらくの間は去勢を施されても性欲は残り、性的興奮によって勃起を生じたと記録される。また、血管の密集した部位であることなどから切断面が盛り上がるという現象が個人差こそあれ、見られたという。このため、実際には年に数度、再生した陰部を切除する再手術が行われた。 西アジアでは乾燥した気候を生かした手術が行われ、砂漠の砂が傷口の化膿防止に使われることもあった。また、宗教上の理由から当該宗教の信仰者を宦官にできないなどの事情から、その人物、多くは奴隷や少年であるが、彼らが異教徒ないし無宗教か信仰する宗教のわからぬ異国の者であることを証明するために手術は公衆に公開され、ショーとしての側面も持ち合わせたことも多いとされる。 日本においては、制度としての宦官はなかった。ただし古川柳に「奥家老、羅切したのを、鼻にかけ」という作品が伝わっていることから、大奥を預かる家老職に、自宮を行った例があるという見方もあるが、実際のところは不明である。 宦官についての詳細は「宦官」を参照
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