宥和活動
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1930年代にルーカスは、政治に対する発言をイギリスの新聞社あてに送った書簡で広く知られ、のちに宥和政策と呼ばれる政策に対して率直に批判した。満洲事変に対する国際連盟の沈黙を受け、彼は国際法を維持し侵略行為への反対を誓った「連盟の中の連盟」を繰り返し提唱した。「大戦以来、イギリスの政策は足を引きずり、臆病で、見て見ぬふりをしている」と彼は1933年に書いている。無修正の『我が闘争』原典を読み、その恐喝の意思を理解すると、1933年9月に彼はナチス・ドイツの再軍備の阻止を強力に求めた。「ヴェルサイユ条約は怪物的だ」と彼は『ウィークエンドレビュー』紙に書いた。 「しかし一つのことが確実に優先される。ドイツの再軍備を決して許してはならない。どうやってそれを防ぐか?国際警察機構によってか?それは理想的だ。不幸なことにそれはあり得ない。フランスはそれを主張している。混乱した頭で考えても、我々は戦争を決して望まない。フランスが代わりに行動を起こしてドイツに働きかけてくれるだろうか? - それとも塀のこちら側におとなしく居座り、秘かに生きるか?私は最初のことを強く望む。ドイツの再軍備は許されない。たとえフランス軍が5年ごとに侵攻しなければならないとしても、それは他の選択肢よりましだ。」 この手紙は一部の読者に「残忍だ」と受け取められ、彼は妥協しない強硬派と位置付けられた。宥和派の『タイムズ』紙は1935年以来彼の投稿を拒否した (彼は編集部を「ドイツ大使館別館」と書いている)。彼がエチオピアへのイタリアの侵攻と民主主義国の不十分な反応を非難したとき、ファシストから罵倒と脅迫を受け、それにはエズラ・パウンドからのものも含まれていた (ルーカスはパウンドからの手紙をケンブリッジの反ファシスト展で展示した)。続く何年か彼は論争の方法を修正したが、主張は変えなかった。戦争を憎み、1936年に彼は「平和のないところで「平和」を叫ぶ無目的な愛想のよさの名のもとで、自分を偽る理由にはなりえない」と彼は主張した 。1937年にイギリスの政策の不誠実さを強調し、「我々は自分の主張を維持していない。安全への道をごまかそうとした挙句、安全はごまかしだと立証した。どんな道も終点がどこかはわからないのだから、まっすぐで正直な道を選ぶべきだ、という知恵を忘れてしまった」と書いた。平和主義が唱えられた時代であり、また彼は往復書簡コラムで「消極的平和主義者」とやり取りしていたが、こうした情緒は琴線に触れた。「これは私の愛するイギリスの声です」と1938年にプラハの通信員は書いた 。「ミュンヘン会談から帰還したチェンバレン首相が歓迎されているのを聞いた時、私の心は震えました。」 華麗なる孤独 (「イギリスの警官は自分の持ち場にとどまるべきだ。」イヴニングスタンダード紙、1935年4月22日) ... パリはガスと炎と血の中を通り過ぎるかもしれない – 我々はこの洪水から離れた所に安全に座っていよう。 ベルリンでは聖なる異端尋問が行われるかもしれない – しかしそれは遅すぎる版だ。 ヒットラーは破壊されたウクライナで歓迎を受けるかもしれない – 我々はただそれを読み、再びゴルフに向かうだろう。 神のために、保護された海で、彼はとり、 我々にビーヴァーブルック男爵の広い胸を授けられた。 我々の周りに、イギリス海峡が落ちても – 決して恐れるな! – ロザミア子爵の無垢の深さが横たわる。 [内政不干渉のイギリスのメディア王に対してのF. L. ルーカスの風刺詩より (ニューステイツマン・アンド・ネイション、1935年5月11日、p.669)] 新聞社へ手紙を送るほかに (全部でおよそ40通で、ほとんどは『ガーディアン』紙宛て - 後述の政治的書簡を参照)、彼の活動には風刺文、論文、書籍、講演、英国赤十字社のための寄付、議会への請願、ハイレ・セラシエ1世やシュテファン・ツヴァイクなどの亡命者との面会、そして難民救済が含まれていた。こうした活動を彼は「長老」の一人であるヘンリー・ネヴィンソン(英語版)を手本にして行った。「私の知る中で最も印象的な人物」、「彼の長い人生は自由に捧げられている」。彼は1938年に出版した『独裁者の愉しみ 』を、友人となったネヴィンソンに献呈した。 この時期にどのように生きていたか将来の読者が興味を持つと信じ、ルーカスは1938年の日記を『テロの下での日記1938年』として1939年3月に出版した (ルーカスが日記で言う「重要な情報源」はおそらくハロルド・ニコルソンであろう)。この日記はイギリス指導者達の中にいる親ナチと宥和政策派の人物について率直に書いているのが特徴である。ミュンヘン会議に出席したチェンバレン首相について彼は次のように書いている (9月30日)。 「彼のやったことが正しいことだったとしても、このやり方は間違っている」 。「降伏は必要だった。空念仏は不要だ。名誉を重んじる政治家であれば、少なくともあのヒステリックな喝采を静めて言うだろう。『友よ、当分の間、危険はない。しかし忘れてはならないのは、私たちを信頼してくれる者がここにいないことだ。今はおそらく安堵の日々である。しかし悲しみもまたある。喜びではなく恥ずべき日である』。しかしこのチェンバレンは、どこかの田舎者が汽車の中でトランプ遊びに勝って6ペンスを手に入れた時のように、喜んだ表情で帰宅したのだった」。 彼が恐れた結果は、英独和平協定 - ナチスとイギリス指導者層との間の協定だった。「いつの日かベルクホーフからロンドンデリー卿(英語版)宛てのメモがダウニング街10番地に届くだろう。それがすべてを解決する」。彼は1939年3月政府が宥和活動に転換したことを歓迎したが、転換の真正性を疑っていた。「貴族たちは、まだ行進を続けている」。 ナチスは彼の書簡に注目していた。1939年8月、彼はヨーゼフ・ゲッベルスからの返事を受け取ったが、それは彼の意見表明を注意するものだった。反ナチ活動のリーダーとして、彼はイギリス人を捕らえ粛正するナチスのブラック・ブック(英語版)に掲載された。
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