系図の混乱問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 23:09 UTC 版)
14世紀中頃に入ると、南北朝時代をむかえ、児玉党や丹党などの武蔵武士団は南朝に属して戦った(そして弱体化、あるいは没落した)。同時代、庄氏ゆかりの宥荘寺が延元2年(1337年)の薊山合戦により焼失した(後世になり、宥勝寺として再建される)。この事もあって、本庄氏の系図については信憑性が曖昧であり、後世に創られた系図が複数ある事もあって混乱を招いている。時家系本庄氏は国房以降、謎が多い。 複数ある系図の一つを紹介すると(信頼性は低いが)、国房の子(時家系本庄氏5代目)は、泰家(左衛門四郎)、その子(6代目)は弘長、その子(7代目)は行俊(三郎五郎)、その子(8代目)は行秀(民部太夫)としている。通し字の観点から、5代目の泰家と6代目の弘長は特に不審である(泰家を国房の子ではなく、弟と考えるなら別である)。別の場所へ移住したり、養子を入れた結果、通し字が変わったと考える事もできるが、特にそうした記述は(系図には)ない。遵って、系図の空白を埋める為に記したとも捉えられる。
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