系図と歴史とは? わかりやすく解説

系図と歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/15 09:21 UTC 版)

康永建一」の記事における「系図と歴史」の解説

高麗王朝一夫多妻制だった。王朝創設した王建そもそも地方豪族味方引き入れるために政略結婚何度も繰り返した経歴持っていた。出世した文官武官は、故郷に住む本妻の他に、都に別の若い妻を住まわせることがよくあった。高麗末期武将として頭角あらわした李成桂も例にもれず、故郷都に1人ずつの妻がいた。 李成桂1392年朝鮮王朝創設した後、故郷の妻は神懿王后となり、都の妻は神徳王后となった。もっとも、神懿王后王朝創設1年前だった1391年世を去っているので、王后尊称死後の追尊ということになる。 さて、神懿王后には6人の息子神徳王后には2人の息子がいた。李成桂は8人の息子恵まれたことになる。この中で、誰を2代目後継者指名するか。常識的には、年長だった神懿王后息子たちから選ぶのが理にかなっていると思われた。特に、神懿王后5番目の息子の芳遠は、父の政敵排除尽力して王朝創設貢献していた。統率力もあり、力量的に申し分のない息子だった。 しかし、実際に李成桂指名したのは、神徳王后2番目の息子だった。李成桂の8男で指名されたときはわずか10歳いかにもこの人事には無理があった。25歳の芳遠をさしおいて1番年少息子次のにさせる根拠乏しかったひとえに寵愛する神徳王后懇願された結果としか言えない王朝新たに打ち立てるほどの才気持っていた李成桂も、還暦近くなって判断力衰えていたに違いない。 「父に裏切られた」その思い強くしていた芳遠が黙っているはずがなかった。 1396年神徳王后世を去ったあと、芳遠は逆襲機会うかがい1398年神徳王后2人の息子死に追いやった。病床にあった李成桂は、ただ傍観するしかなかった。情に流され後継者指名反動は、異母兄弟たちによる骨肉の争いという悲劇生んでしまった。先に兄を即位させてから満を持して3代となった芳遠は、よほど継母が憎かったようで、神徳王后の墓を格下げにして彼女の身分落としたそれだけあきたらず神徳王后親族厳罰にした。そのあおりで、いとこで高官出世していた康永は、1402年済州島島流しとなった失意康永気を取り直して現地子づくり励みその後彼の子孫が済州島増えて現在に至っている。建一も子孫1人で、本貫谷山の康氏の中で、神徳王后康永8代目で私は40代目である。 従兄弟は「王族末裔だから世が世なら……」とたわむれを言うが、政争敗れて先祖済州島島流しされたからこそ祖父たちが済州島で生を受けたわけであり、神徳王后息子予定どおり王位継いでいれば、建一もこの世生まれてこられなかっただろう。芳遠が起こした政変が、後々1人ひとりの生に影響与えているそうだ。 建一はたまに言う。日本にいる康永名乗る名字は、全員親戚であり、血縁関係がある。いつか偶然、康永名乗る名字の方と偶然出会い、そして食事をしたいと。

※この「系図と歴史」の解説は、「康永建一」の解説の一部です。
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