系図における両者の混同
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 19:18 UTC 版)
以上2人の河内王は活動時期も没年も異なるため、明らかに別人であるが、系図の上では永らく両者は混同して扱われてきた経緯がある。すなわち、室町時代に成立した『本朝皇胤紹運録』には次のような系図が示されており、旧来これに従って、高安王ら兄弟は天武天皇の曾孫に位置付けられることが多かった。 天武天皇 長皇子 川内王 高安王 桜井王 門部王 しかし、長皇子の子である河内王が和銅7年(714年)初叙されたのに対し、孫とされる門部王と高安王がそれより早い同3年(710年)・同6年(713年)初叙されていることは不審であり、また、高安王ら兄弟が天平11年(739年)賜姓された大原真人氏の出自に関して、『新撰姓氏録』左京皇別には敏達天皇の孫・百済王であることが明記されている点を考慮すると、高安王らを天武天皇の曾孫に架ける『紹運録』の系図は完全な誤りと断じて差し支えない。田中卓は早くにこの誤りを指摘しただけでなく、同系図が2人の河内王を混同していた可能性を看破し、「長皇子―河内王」と「河内王―高安王」との要素に切り離した上で、系図を以下のように復原している。 敏達天皇 押坂彦人大兄皇子 舒明天皇 天武天皇 長皇子 河内王 百済王 某王 河内王 高安王 桜井王 門部王 高安王・桜井王・門部王の3人を兄弟とし、またその父を河内王とする系譜は『紹運録』独自の史料だが、彼らのような遠皇親は本来系図に記載されるべき性質のものではないため、転写の際に私的に増補(書継ぎ)された情報ではないかと思われる。したがって、個別の要素には史実を含んでいる可能性があり、全体の史料性に疑問があるからと言って簡単に否定し去るべきではない。根拠は明らかでないが、河内王を百済王の子とする系図が存在することも一応の参考とはなろう。
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