陸奥への帰還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 10:19 UTC 版)
3月2日、顕家は権中納言に任官し、3月20日あるいは24日に足利方を掃討するため再び奥州へ戻る。その帰途、相模で足利方の斯波家長の妨害を受けるが、4月にはこれを破っている。 5月、顕家は相馬氏を破り、奥州へと帰還した。この間、顕家と共闘した義貞・正成が九州から北上した尊氏に湊川で敗れ(湊川の戦い)、正成は命を落とし、義貞は後醍醐帝らとともに比叡山へと逃げた。 同年9月、武蔵国児玉郡浅見山(別名、大久保山)周辺域(現埼玉県本庄市から児玉町一帯)で、薊山合戦を起こす。『元弘日記』によれば、この戦は官軍が皆有利とある。
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