陸奥の南部氏とは? わかりやすく解説

陸奥の南部氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 23:31 UTC 版)

南部氏」の記事における「陸奥の南部氏」の解説

陸奥では南部守行の後、三戸南部氏の第24当主である南部晴政現われると、他勢力制して陸奥北部掌握した。晴政は積極的に勢力拡大図り、「三日月丸くなるまで南部領」と謳われた南部氏最盛期築き上げた。晴政は中央の織田信長とも誼を通じるなどの外交展開するが、家中では晴政とその養嗣子だった従兄弟石川信直が対立するなど、内訌存在していた。 晴政の晩年には南部氏一族とされる大浦為信挙兵した。広大な南部氏領地では、国人家臣化と中央集権化はあまり進んでおらず(南部氏中央集権が進むのは利直の時代入ってから)、津軽地方国人衆浪岡御所浪岡北畠氏)、蝦夷管領檜山安東氏)の残党石川城津軽郡代(石川南部氏)らは為信に各個撃破されていった天正10年1582年)に晴政、晴継父子が没し南部一族内の家督争い結果石川南部)信直が相続するが、その際に晴政親子は信直によって暗殺されたとする説もある。天正16年1588年)、紫波郡岩手半郡を持つ高水寺斯波御所)と雫石雫石御所及び猪去館)の両斯波氏降し閉伊郡蟠踞する田鎖閉伊氏と、遠野横田阿曽沼氏臣下とした。 一方で津軽地方外ヶ浜糠部郡一部押領した大浦為信豊臣秀吉臣従し所領を安堵されたために、三戸南部氏は元々不安定だった大浦南部氏統制を完全に失うことになる。 天正18年1590年)、南部氏26当主である南部信直八戸直栄を随伴し1000率いて豊臣秀吉の「小田原征伐」に参陣する。これは八戸政栄(直栄の父)が、根城南部氏三戸南部氏の「付庸」であることを認めて自らの小田原参陣を諦め領内対立する九戸政実大浦南部氏への牽制委ねることができたからである。信直はそのまま奥州仕置の軍に従軍し秀吉から宇都宮において、7月27日付で南部所領の内7ヶ郡(糠部郡閉伊郡鹿角郡久慈郡岩手郡紫波郡、そして遠野保か?)についての覚書朱印状を得る。 翌年九戸政実起こした九戸政実の乱」が豊臣政権の手鎮圧され、失領していた津軽3ヶ郡(平賀郡鼻和郡田舎郡)の代替地として和賀郡稗貫郡の2ヶ郡が加増され、南部氏は9ヶ郡10万石の所領確定した実高20万石ともいわれる津軽地方対し和賀稗貫の両郡は合わせて数万石のため晴政の全盛期よりは石高大幅に減少している)。 ただし、旧領召し上げられ和賀義忠稗貫広忠数度にわたり遺民蜂起させ、南部氏苦しめた和賀・稗貫一揆)。一揆の鎮圧和賀義忠戦死稗貫広忠逃亡した広忠の娘は出家した南部信直見初められて還俗し稗貫御前呼ばれる側室になった一方義忠の子和賀忠親尚も屈せず関ヶ原の合戦時には伊達政宗扇動され南部領侵攻した岩崎一揆)。

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