陸奥の南部氏
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陸奥では南部守行の後、三戸南部氏の第24代当主である南部晴政が現われると、他勢力を制して陸奥北部を掌握した。晴政は積極的に勢力拡大を図り、「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われた南部氏の最盛期を築き上げた。晴政は中央の織田信長とも誼を通じるなどの外交を展開するが、家中では晴政とその養嗣子だった従兄弟の石川信直が対立するなど、内訌も存在していた。 晴政の晩年には南部氏の一族とされる大浦為信が挙兵した。広大な南部氏の領地では、国人の家臣化と中央集権化はあまり進んでおらず(南部氏の中央集権が進むのは利直の時代に入ってから)、津軽地方の国人衆、浪岡御所(浪岡北畠氏)、蝦夷管領(檜山安東氏)の残党、石川城の津軽郡代(石川南部氏)らは為信に各個撃破されていった。 天正10年(1582年)に晴政、晴継父子が没し、南部一族内の家督争いの結果、石川(南部)信直が相続するが、その際に晴政親子は信直によって暗殺されたとする説もある。天正16年(1588年)、紫波郡と岩手半郡を持つ高水寺(斯波御所)と雫石(雫石御所及び猪去館)の両斯波氏を降し、閉伊郡に蟠踞する田鎖の閉伊氏と、遠野保横田の阿曽沼氏を臣下とした。 一方で津軽地方、外ヶ浜と糠部郡の一部を押領した大浦為信は豊臣秀吉に臣従し所領を安堵されたために、三戸南部氏は元々不安定だった大浦南部氏の統制を完全に失うことになる。 天正18年(1590年)、南部氏第26代当主である南部信直は八戸直栄を随伴し兵1000を率いて、豊臣秀吉の「小田原征伐」に参陣する。これは八戸政栄(直栄の父)が、根城南部氏が三戸南部氏の「付庸」であることを認めて自らの小田原参陣を諦め、領内で対立する九戸政実や大浦南部氏への牽制を委ねることができたからである。信直はそのまま奥州仕置の軍に従軍し、秀吉から宇都宮において、7月27日付で南部の所領の内7ヶ郡(糠部郡、閉伊郡、鹿角郡、久慈郡、岩手郡、紫波郡、そして遠野保か?)についての覚書の朱印状を得る。 翌年に九戸政実が起こした「九戸政実の乱」が豊臣政権の手で鎮圧され、失領していた津軽3ヶ郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)の代替地として和賀郡、稗貫郡の2ヶ郡が加増され、南部氏は9ヶ郡10万石の所領が確定した(実高20万石ともいわれる津軽地方に対し、和賀・稗貫の両郡は合わせても数万石のため晴政の全盛期よりは石高は大幅に減少している)。 ただし、旧領を召し上げられた和賀義忠と稗貫広忠は数度にわたり遺民を蜂起させ、南部氏を苦しめた(和賀・稗貫一揆)。一揆の鎮圧で和賀義忠は戦死、稗貫広忠は逃亡した。広忠の娘は出家したが南部信直に見初められて還俗し、稗貫御前と呼ばれる側室になった。一方、義忠の子・和賀忠親は尚も屈せず、関ヶ原の合戦時には伊達政宗に扇動され、南部領に侵攻した(岩崎一揆)。
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