和賀義忠
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時代 | 戦国時代 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天正19年(1591) |
官位 | 薩摩守[1] |
氏族 | 和賀氏 |
父母 | 和賀義勝 |
兄弟 | 義忠、稗貫広忠 |
子 | 和賀忠親 |
和賀 義忠(わが よしただ、生年不明 - 1591年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。陸奥国二子城主。
人物
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に名代を派遣し自らは参陣しなかったため、豊臣政権の奥州仕置により所領没収、居城追放処分となったが、浅野長政らの奥州仕置軍が撤退すると、和賀氏の残党を率いて和賀・稗貫一揆を起こし、二子城を奪取した。
翌年の天正19年(1591年)、蒲生氏郷軍が侵攻し、義忠は逃走した。逃走の途次、落ち武者狩りに遭い義忠は殺害された[2]。
これらを恨んだ子の和賀忠親は、伊達政宗と共に岩崎一揆を起こすこととなる。
脚注
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