再仕置軍の侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 09:24 UTC 版)
これら大規模な一揆と翌天正19年(1591年)南部領内で火を噴いた九戸政実の乱の鎮圧のため、秀吉は天正19年6月20日号令をかけて奥州再仕置軍を編成した。白河口には豊臣秀次を総大将に率いられた3万の兵に徳川家康が加わり、仙北口には上杉景勝、大谷吉継が、津軽方面には前田利家、前田利長が、相馬口には石田三成、佐竹義重、宇都宮国綱が当てられ、伊達政宗、最上義光、小野寺義道、戸沢光盛、秋田実季、津軽為信らにはこれら諸将の指揮下に入るよう指示している。奥州再仕置軍は奥羽に侵攻し、蒲生氏郷や浅野長政と合流して一揆を平定しながら北進した。和賀氏らも頑強に抵抗したものの、再仕置軍に鎮圧された。和賀義忠は逃走の途中で土民に殺害されたという。その後この領地は南部信直に与えられ、和賀氏、稗貫氏は没落していった。これを恨んだ和賀忠親(和賀義忠の子)は、のちに再び一揆を起こすこととなる(岩崎一揆)。 南部信直は重臣の北秀愛を和賀稗貫8千石の城代とし、北秀愛は鳥谷ヶ崎城を花巻城と改名している。
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