再交渉とウクライナ危機以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 23:02 UTC 版)
「エストニアとロシアの領有権問題」の記事における「再交渉とウクライナ危機以降」の解説
その後、ようやく2011年に至ってロシア外相セルゲイ・ラヴロフがエストニア側へサインを送り、また翌2012年にはエストニア議会外交委員会議長マルコ・ミフケルソン(英語版)がロシア上院国際問題委員会議長ミハイル・マルゲロフ(ロシア語版)との個人的なコネクションを行使したことで、国境条約に関する再度の交渉が動き出した。2014年2月18日にはラヴロフとウルマス・パエト(英語版)の両国外相が、ソ連時代の国境線を追認する形での合意文書に署名した。 合意文書の作成にはエストニア外交政策研究所 (et) およびタルトゥ大学憲法・国際法研究所所長のラウリ・ミャルクソー (et) が関わり、前文からタルトゥ条約に関する記述は削除された。またロシア側の強い要求に基づき、今後両国が互いに領土主張を行わない、とする記述が追加された。一方でエストニア側の強い要求により、合意は領有権問題に関してのみ適用され、エストニア国家の継続性には関係しない、との記述も盛り込まれた。これにより、エストニア側はタルトゥ条約に関する2つの争点につき、領有権問題については全面的に譲歩したが、ソ連への併合の違法性問題についてはその主張を堅持した。 両国外相が国境条約に署名を終え、あとは両国議会の批准を終えれば、条約は発効する予定であった。ところが、条約署名の翌月にはロシアの介入によってウクライナ危機が発生し、これによってロシアは欧米諸国から経済制裁を受けるに至った。国際社会から孤立したロシアは、「今は条約を妥結させる雰囲気ではない」として批准プロセスを凍結させ、エストニア議会の側も、「ロシアの出方を窺う」として同じく批准プロセスを凍結させた。さらには同年9月5日、ロシア側によるエストニア治安当局者拘束事件(エストン・コフヴェル事件(ロシア語版))が発生し、両国の関係は一層の冷え込みを見せた。 翌2015年1月21日にはラヴロフが、条約批准に向けてすぐさま動く用意があると述べて議論を呼んだ。秋にはエストニア外相マリーナ・カリュラントとの間に、両政府が両国議会に対して国境条約を提出するとの合意を結んだ。これを受けてエストニア議会は同年11月に条約を第1読会で通過させたが、ロシア側はその後もエストニアの「反露感情」について抗議を繰り返し、2020年に至っても批准プロセスを進行させていない。 度重なる国境交渉頓挫を受け、エストニアの世論は二分されている。ウクライナの轍を踏まないためにも早急に国境条約を締結すべき、という意見と、国境が画定していたはずのウクライナにまで侵攻するようなロシアとの国境条約は無意味、とする意見である(後者の意見は領有権放棄反対派に強い)。また、ロシア系住民の存在を理由としたウクライナ危機を見れば、ロシア人が人口の大多数を占める係争地はむしろ手放すことが国益に適う、との見方も強まっている。
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