交渉頓挫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/02 04:06 UTC 版)
「フェルナン・ピレス・デ・アンドラーデ」の記事における「交渉頓挫」の解説
まだシモン・デ・アンドラーデが現れていない1518年、ポルトガル使節団の先遣隊が広東を離れ、陸路北へ出立した。1520年1月にはフェルナン・ピレス・デ・アンドラーデとトメ・ピレスが残りを率いて後を追った。1520年5月、南京に到着した使節団は、ここで寧王の乱鎮圧のためにやってきていた正徳帝に簡素な謁見を許された。しかしより深い交渉は北京で、しかも正徳帝が帰京してからということになり、使節団は一足早く北京に向かい、皇帝の帰還を待つことになった。 中国側にはこの件に関する詳細な記録が無いが、ポルトガル側の文献には、ポルトガル人が各月の1日および15日に呼び出され、紫禁城の城壁の前で皇帝への目通りを求めて土下座させられたことが記録されている。1521年1月、使節団は、皇帝が通州に至り、そこで寧王朱宸濠を処刑したという報を受け取った。またポルトガル人たちは、マラッカの亡命スルターンが北京に使者を送り、皇帝にポルトガル人排除と自身の再登位を求めていることに気づいた。さらにポルトガル人は、二人の明の役人が、ポルトガルのマラッカ征服を批判し通商交渉を蹴るよう奏じていることも知った。これに加え広東からも、ポルトガル人は勝手に貿易拠点を築こうとする厄介な外国人であるという報告が北京に送られてきた。 1521年4月19日に正徳帝が死去したことで、外国使節の饗応を含むすべての式典が取りやめられた。そして内閣大学士の楊廷和が宦官勢力を抑え、強大な権限を握るようになった。公式には明にとって周辺各国は朝貢国のリストに載っているだけの存在だが、利に聡い宦官たちは積極的に交易路を外国へ広げようとしていた。こうした動きは宦官に操られていた正徳帝の時代には自由であったが、彼が死去したことで宦官の権力基盤が崩れ、アンドラーデは皇帝の死の翌日に要望却下を言い渡され、ポルトガル使節団は広東に戻らざるを得なくなった。
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